人形佐七捕物帳 巻六 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  ふたり後家  三日月おせん  狸《たぬき》ばやし  お玉が池  若衆かつら     ふたり後家  おしゃべりお竹   ——いまにひと騒動起こりそうで 「髪はからすのぬれ羽いろっていいますが、ほんとに、ねえさんのお髪《ぐし》のことですね。くせがなくて、素直で、そして、まあ、このつやつやとしておりますことといったら……」 「お竹さん、あいかわらず、お世辞がいいわね。いくらほめたって、なんにも出ないよ」 「とんでもない。そんなつもりでいうんじゃありません。ほんに髪はからすの……」 「いいわよ。わかったわよ、お竹さん。おまえさんのお世辞のいいのは、通りもんなんだから。それより、お半ちゃんはどうしたの」 「え、お半ちゃんがどうかしましたか」 「なんだか、とってもしょげてたわよ。お師匠さんにひどくしかられて、おひまが出るかもしれませんと、涙ぐんでいた。どんなしくじりがあったのかしれないけれど、まだ若いんだから、まあ、たいがいに堪忍しておやりな」 「そんなこといってましたか。ひまを出すなんて。そんな……あの子はどうも、気が弱くていけないんですよ。それでつい、してはいけないってことをしてしまうんです」 「いったい、なにをしたのさ」 「それがねえ。わたしどものように、ご新造さんや、お嬢さんあいてのしごとをしておりますと、つい殿方からへんなことを頼まれるんでございますよ」 「へんなことって……ああ、そうなの? 付けぶみなんかの橋渡し……?」 「そうなんでございますよ。だから、あの娘《こ》の弟子入りのときも、それだけは懇々といましめておいたんです。どなたに、どんなに頼まれたってこれだけはけっしてお引き受けしちゃならないって……それだのに、あの娘は気が弱いもんですから、頼まれると、つい……」 「そうなの。それで、おまえさんにがみがみいわれたのね。でも、うらやましいじゃないの。あたしもたまにゃ、艶書《ふみ》でもつけられる身になってみたい。お半ちゃん、だれからかことづかってきてくれないかしら」 「とんでもない」 「ほ、ほ、ほ、ほんとにとんでもないわね。こんなおばあちゃんになっちゃ、だれだって、はなも引っかけてくれやアしない」 「ご冗談を……いえね、ねえさんに思いをこがしてる男なら、それこそヤマほどあるんですが、それがそれ、ぬしある花ですからね」  神田お玉が池は佐七の住まい。  お粂《くめ》はどこへ出かけるのが、出入りの女髪結いお竹をよんで、きょうはとんだおめかしである。  となりの部屋では、佐七がつまらなそうに鼻毛を抜いているそばで、辰と豆六が、これまたつまらなそうにヘボ将棋。  いや、岡っ引きが鼻毛をかぞえ、子分がヘボ将棋にからだをもてあましているようじゃ、まことに天下泰平である。  佐七はきくともなしに、となりの部屋の会話をきいていたが、やがて、にやりと笑うと、 「おい、お竹さん、そのお粂がぬしある花かえ。花は花でも、どくだみかなんかの花だろ」 「あれ、親分のお口のわるい」 「おまけに、そのぬしというのが野暮な十手をふりまわすやつだから、これじゃ、おっかながって艶書《ふみ》をつけるやつもあるめえ。どうだ、お粂、そんなに艶書がつけてもらいたきゃ、もらえるようにしてやろうか」 「いやだねえ、おまえさん、冗談だよ」 「親分、あねさんに艶書がくるようにしてやるって、いったい、どうするんで」 「後家にしてやるのよ」 「あれ、まあ、おまえさん、縁起でもない」 「なにをいやアがる。こんなれっきとした亭主がありながら、お半ちゃん、だれからか艶書《ふみ》をことづかってきてくれないかしら……おのれ、よくもぬかしゃアがったな。よし、後家にしてやる。おれが死ねばいいんだろ」  と、佐七の声が巽《たつみ》あがりにはねあがったから、さあ、よろこんだのが辰と豆六で。  このお粂佐七のご両人、日ごろはいたって仲がいい。  夫婦仲のいいのはけっこうみたいなもんだが、これも度がすぎると困ることもあるもんで。ことに、二階に居候をしている辰と豆六、どっちもひとりもんだけにたまらない。  いかに近ごろのみじか夜とはいえ、階下からきこえる喋々喃々《ちょうちょうなんなん》に、蒸し殺される思いである。  だから、ときどき夫婦をけしかけて、はなばなしくけんかをやらせては、涼をとることにしているのだが、ことにきょうは、女房の結いたて亭主ちょっとほれ、なんてことになってはたまらんと、さきほどより警戒おさおさ怠りなかったところだから、しめたとばかり、 「そうそう、女でもいちばん味のいいのは、後家さんだというから、親分も……」 「あねさんがかわいいと思わはったら、ひとつ、後家さんにしてあげるんやね」  と、図にのってはやし立てそうになったから、あわてたのは髪結いのお竹で、 「まあ、辰つぁんも豆さんも、なにをいうんだね。縁起でもない。そうそう、それで思い出しましたが、お半がしくじった一件というのも、つまりはその、後家さんなんですよ」 「後家さんがどうしたと?」  佐七の声はまだ荒っぽい。  お竹はいよいよあわてて、 「いえね、お半が艶書《ふみ》をたのまれたのが、黒門町の後家さんなんです。それがばれて、ご養子さんからねじこまれ、あやうくおとくいさんを一件しくじるところだったんですよ」  と聞いて、はてなとばかり、首をひねったのがきんちゃくの辰で。なにせ、この辰五郎というのが、大江戸女|細見《さいけん》ともいうべきで、女にかけては好学博識の徒。  どこそこの娘は器量はいいがわきががするとか、どこそこの後家はすましているがときおり芳町《よしちょう》がよいをするなアんてことを、すみからすみまで知ってるほどの兄いだから、後家ときいては黙ってはいられない。 「黒門町といやア、あそこにゃ、甲州屋と越後屋に若後家がいて、町内でふたり後家と大ひょうばんだが、お竹さん、お半ちゃんが艶書をたのまれたのは、そのひとりとちがうかえ」 「へっへっへ、だまっているところをみると、図星やな。お竹さん、すると艶書をつけたというやつは、湯島の境内へ出てる嵐梅之丞《あらしうめのじょう》とちがうのんか」 「まあ、それじゃ、そんなうわさがこのへんまできこえているんでございますか」 「それゃこちとらは地獄耳よ。なんでも、越後屋の後家のお栄と、甲州屋の後家のお幸が、梅之丞のとりっこで、女だてらにとんだ鞘当《さやあ》てをやってるってえじゃないか」 「さあ、それなんですよ。おとくいさきのことをとやかくいうのはなんですけれど、それでいまにひと騒動起こるんじゃないかと、心配してるんでございますよ。親分、きいてください。こうなんです」  甲越女軍記   ——添うに添われぬふたりが仲  黒門町で二軒ならんだ越後屋と甲州屋、どっちも名だかい生薬屋だが、まさか、謙信《けんしん》と信玄の血をひいたわけでもあるまいに、先祖代々仲がわるい。  そこへもってきて、お栄とお幸、どっちもひとり娘で養子とり。  しかも、これが、黒門町のふたり小町といわれるくらい甲乙なしの美人だから、若いときから、いや、その競争のはげしいこと。  衣装持ちものはいうにおよばず、いっぽうが出入りのものを三人つれて芝居にいけば、いっぽうは五人つれて遊山にいくというわけで、その競争のはげしいこと、世間のひょうばんになったものだが、そのうちに、ふたりの娘がひとりの男にほれるにおよんで、競争はまさにクライマックス。 「そうそう、その話はきいた。なんでも、そのときは、甲州屋に軍配があがったんだってね」  佐七もおもわずつりこまれる。 「そうなんですよ。あいてはどこかのご浪人で、なアに、べつに大したひとじゃなかったんですが、そこが意地ですね。そのときは、お幸さんのほうに軍配があがって、はなばなしくそのご浪人を婿養子にむかえいれる。お栄さんのほうではしかたがないから、ほかから婿をとったんです」  それが十二、三年まえの話である。 「ところが、ふしぎじゃありませんか。一昨年、お幸さんの恋婿が病気で死ぬと、お栄さんの婿というのが、これまたひと月もたたぬうちに、ころりと亡くなっちまったんです」 「はてな、そんなところまで競争するのかな」 「まさか、そんなわけじゃありますまいが、それでほとんどいっときに後家がふたりできたわけですが、さあ、それからがたいへんなんです」  さすがに婿が生きているあいだはつつしんでいたふたりの競争が、これでまたぞろ、頭をもたげてきたのである。  おまけに、越後屋も甲州屋も、先年、両親があいついで亡くなったから、いまではお栄、お幸の女天下。  だれひとり、頭をおさえるものがないところから、ふたりの競争は、旧に倍して激烈をきわめた。  日髪、日化粧は申すにおよばず、いっぽうが一日に三度着物を着替えると、いっぽうは五度着替える。いっぽうが三度飯を食うと、いっぽうは五度食う……。  まさかそんなことはないが、とにかく、ふたりの競争は、かいわいでも評判ものだった。 「それで、ふたりはいくつだね」 「おないどしの三十二なんです」 「むつかしい年だな。二十後家は立っても、三十後家は立たぬというくらいだからな。それで、子どもはねえのか」 「それが、ふしぎにどっちにも授からなかったんです。そこで、甲州屋では、お幸さんの遠縁にあたる滝次郎さんという若いひとを跡取り養子にむかえたんですが、すると、越後屋でも負けぬ気になって、お栄さんの遠縁の娘でお菊ちゃんというのを娘分にむかえたんです」 「その滝次郎とお菊というのは、いくつだえ」 「滝次郎さんは十八、お菊ちゃんは十六です」 「いい年ごろだな。そのふたりが思いおうて、そういうところから、お栄とお幸とが仲直りができればいうことはねえ」  辰はのんきなことをいっている。 「とんでもない。もしそんなことになったら、お栄さんも、お幸さんもすててはおきません。ふたりは勘当されてしまうでしょう」 「そうなったらしめたもんや」  と、こんどは豆六がしたり顔に、 「そうにそわれぬふたりが仲、いっそ未来で、てなことから道行きになりよる。そろいの衣装で、手ぬぐいをこう吹き流しにかぶって、まず、女のほうから小走りに、花道の七三までくると、けつまずきまんな。そこへ男が追っかけてきて、いれちがいになって、あ、これえ、てなこというて、見得になったところで清元になる」 「なにをつまらねえことをいってやアがる。おまえたちはだまってろ」  佐七はにが笑いをしながら、 「ときに、お竹さん、さっきの話はどうした。なんとかいったな。そうそう、嵐梅之丞か」 「さあ、そのことなんですがね」  お竹はさっさとお粂の髪を結いながら、 「その嵐梅之丞というのは、この春ごろから、湯島の宮芝居にでてる役者なんですが、これが、めっぽうかわいいんです。まだわかいから、芸はなっていませんが、忠臣蔵の力弥《りきや》だの、すし屋の維盛《これもり》をやらせると、それこそ水の垂れるようなよい器量で……」  さてこそ、本郷から下谷へかけて、娘といわず、新造といわず、たいへんな血道のあげかただったが、なかでいちばん熱心なのがお栄とお幸、猛烈な鍔《つば》ぜりあいをはじめたのである。 「それで、梅之丞はどっちへ転んだんだえ」 「それがねえ、お栄さんとできたというひともありますし、いや、お栄さんじゃない、お幸さんがものにしたというひともあって、どっちがどっちだかわからないんです。いずれにしても、あいては人気稼業ですから、ひいきにさえしてくれれば、どっちへだってなびくわけです」 「それで、お半が艶書《ふみ》をたのまれたのは?」 「お幸さんのほうなんです」 「お半はしじゅうそんなことをしていたのか」 「いいえ、それがたったいちどきりなんだそうで……わたしもけさ、滝次郎さんにねじこまれて、はじめて知ってびっくりして、お半を責めてきいたんですが、艶書をたのまれたのは、きのうのことなんだそうです」 「梅之丞がお半にたのんだんだな」 「ええ、そうなんです」  梳子《すきこ》のお半は、お竹よりひと足さきに、おとくいの髪をすいてまわる。  きのうのお半は、甲州屋へ出むくとちゅう、源兵衛稲荷《げんべえいなり》をぬけようとして、そこで梅之丞に出あったのである。  お半も艶書のなかだちなどしていけないことはしっていたが、梅之丞におがまれると、いやというわけにはいかなかった。  そこで、こっそりとその艶書をお幸に手渡しするところを、運悪く、養子の滝次郎に見つかったのである。 「わたしもびっくりして、二度とそんなことをしちゃいけないと、お半をしかっておきましたが、ほんとに困ったこと……なにかあったとき、かかりあいになるのはいやですからね」 「なにかありそうな気配かえ」 「さあ……なんともいえませんが、意地も張りも、あんまり度をすぎると、なんだかこわいようでございます」  と、お竹はほっとため息をついたが、その予感はあまりにもうまく的中して、その翌朝、お幸がむごたらしい死体となって発見されたから、さあ、たいへん、そこでまたぞろ、人形佐七の手柄話——ということになるわけである。  裸の死体   ——梅之丞は口もきかず  ちかごろはラブホテルというのがあって、便宜を提供しているそうだが、いまもむかしも、男女のみちにかわりはなく、そのころは、上野|不忍池《しのばずのいけ》のほとりに、出会い茶屋というのがずらりとならんでいて、  はす池に咲くのが後家の返り花  と、川柳点にもいわれるとおり、さかんにうわきな後家や、宿下がりの御殿女中などを吸引していたものだが、その出会い茶屋のひとつ、うれし野というのへ、しらせをきいて駆けつけてきたのは人形佐七。  不忍池にいちめんに、はすの花の咲いている朝だった。 「おや、親分、ご苦労さまでございます。きょうはおひとりで……辰つぁんや豆さんはどうしました」 「あいつらは、ちょっとほかへまわらせました。さっそくですが、死体というのは……?」 「どうぞ、こちらへおいでくださいまし」  詰めていた町役人に案内されたのは、庭のおくにひと棟《むね》はなれて建っている数奇屋ごのみの離れ座敷。  そのくつ脱ぎのうえをみて、佐七はおやとまゆをひそめた。  くつ脱ぎのうえには、くろぬりの下駄《げた》が一足、それはわかい女形《おやま》などのこのんではく下駄だが、ほかに女下駄らしいものは見当たらなかった。 「親分、どうかしましたか」 「いえ、あの、ちょっと……それじゃ、この座敷のなかなんですね」 「へえ、さようで。どうぞおはいりください」  離れ座敷のそとの庭に、二十前後のわかい男が、町役人や茶屋の女中にとりかこまれて、あおい顔をして立っているのをしり目にかけて、障子をあけると、なかは四畳半と六畳のふた間になっていて、六畳のちゃぶ台には、おさだまりの酒さかな。  そのおくにある四畳半をのぞいてみて、佐七はおもわず目をみはった。  立てまわした屏風《びょうぶ》のなかに、寝床がしいてあって、まくらがふたつ。その寝床のうえに、首にあかいしごきをまきつけたままのけぞっているのは、なんと、腰まきひとつの女なのである。  寝床はひどく乱れていた。  掛け布団は足もととおくけちらかされていて、敷き布団ももみくちゃになっているところをみると、ゆうべここでいかにはなばなしい男と女の演技が展開されたかしのばれるようである。  まくらをはずした女の髷《まげ》はがっくりかたむき、のけぞった白い首に赤いしごきが食いいるように巻きついているところをみると、男のたけだけしい攻撃に身も心もゆだねているうちに、歓喜の絶頂にまで押しあげられた女が、大恐悦のあまり、われを忘れてまくらをはずし、身をのけぞらせて、恍惚《こうこつ》状態になったところをみすまして、男がうえからぐっとひと絞め、絞めころしたのではないかと思われた。  さすがに女は腰まきだけはしめていた。しかし、しめているとは形ばかりで、赤い布は、へそのうえまでたくしあげられていて、男のからだをかかえこんで、喜悦にのたうちまわっていたであろうその両脚は、そのままの形で硬直していて、そのおくに女のすがたが赤裸々にむきだしにされっぱなしになっていた。  辰や豆六がその場にいたら、大いに蠱惑的《こわくてき》だったかもしれないが、女房持ちの佐七には、ただもうあさましいの一語につきた。 「ひどいことをしやアがる」  佐七は舌打ちして、そこから目をそらすと、 「黒門町の、甲州屋の後家さんだとかききましたが、それにちがいございませんか」 「へえ、間違いはございません。外におりますのが、甲州屋さんのご養子の滝次郎さんで」  なるほど、わかいころ、黒門町のふたり小町のひとりにかぞえられただけあって、お幸はよい器量である。  まゆを青くそりおとし、なかばひらいたくちびるのあいだから、くろくぬった歯なみがちらとのぞいているのもなまめかしい。  あらわの乳房はむっちりとして、子どもをうんだことのない女特有の、ひきしまったふくらみを見せている。  腰からしりへかけての曲線にも、年増ざかりの女の色気がむせっかえるようである。  すこし太りぎみだが、けっして醜いふとりかたではなく、左右にひらいた太股《ふともも》のつややかさなど、女盛りのあくことしらぬたくましさを思わせるような肉置《ししお》きである。  絞めころされるとき、血を吐いたのか、あごからのどへかけてなまなましく血にそまっているが、ふしぎなことには、布団のうえにも、畳のうえにも、一滴も血はこぼれていなかった。  下手人はなにかでお幸の吐く血を受けとめたのにちがいない。 「このしごきは……?」 「お幸さんのものだそうです」 「なるほど、このようすじゃ、男と寝て、さんざん色事したんでしょうねえ」  町役人は顔をしかめて、 「もちろん、女のほうでは、その気十分だったらしいんですが、男のほうではさいごまで、思いをとげていないそうです」 「え?」  佐七はびっくりしたように、おもわず女のそこへ目をやった。 「つまり、女を夢中にさせておいて、ぐっとひと絞め、絞めたとたんに、男にはその気がなくなったんだろうと、医者はそういってるんですがね。男のものはのこっていないそうですよ」  そんなことができるだろうかと、佐七はまゆをひそめていぶかしがった。それとも、女をころしたそのとたん、恐怖のあまり、士気が沮喪《そそう》してしまったのだろうか。 「それにしても、こいつが発見されたとき、死体はこういう状態だったんですか」 「そうだそうですよ」  と、町役人もまゆをひそめて、 「人殺しが発見されたばあい、現場をいじっちゃいけないということを、この家のものはみんなしっていたんですね」 「それじゃ、下手人は女の死骸をこのとおりむきだしにしたまんま、いっちまったというんですか」  いかに暑い季節とはいえ、また、いかに下手人がどういう男にしろ、それはあまりにも冷酷無残であるように思われた。  ふつうの神経の持ちぬしなら、掛け布団はともかくも、腰まきのまえくらい、かいつくろっていきそうなもの。いや、腰まきのまえをかいつくろったうえ、掛け布団をかけていってやるのが、ふつうの人情ではないか。  これでは、被害者の醜を、天下のさらしものにするようなものである。  佐七はそこにこの一件の下手人のケタはずれの残忍さがしのばれるような気がして、おもわずブルッと身をふるわせた。  佐七はもういちど座敷のなかを見まわして、ふいとまゆをひそめると、 「そうすると、この座敷にも、だれも手をつけていないんですね」 「ええ、それはもちろん」 「しかし、それじゃ、仏の衣装はどうしたんです。どこにもきものが見えないが……」 「さあ、それなんですよ。わたしもふしぎに思って、さがしてみたんですが、きものも、帯も、長襦袢《ながじゅばん》も、お幸さんの衣装は一式なくなっているんです。のこっているのは、その腰まきと、首をしめたしごきだけなんです」 「変ですね。そういえば、くつ脱ぎに女下駄がみえなかったようですが……」 「さすがは親分、お気づきになりましたか」 「それじゃ、下駄もなくなっているんですね」 「そうなんですよ。下駄のほうは、しかし、あわてていたので、まちがえてはいていったものと思われないこともありませんが、きものはいったいどうしたのか……まさか、金目のものに目がくれて、持っていったんじゃありますまいが……」 「いや、それだったら、頭のものだって持ってくはずです。それ、鼈甲《べっこう》でしょう」  贅《ぜい》をつくしたお幸の櫛《くし》こうがいは、それだけでも、大した金目のものだった。 「そうです、そうです。それに、紙入れにも手をつけたようすはございません」  なるほど、まくらもとには、女持ちの紙入れがおちており、なかには小判が二、三枚、ほかに小粒がたくさんはいっている。 「妙ですね。どうして衣装がなくなったのか……」  佐七は小首をかしげたが、すぐまた気をかえるように、 「ところで、男というのは……?」 「親分はご存じじゃありませんか。湯島の宮芝居に出ている嵐梅之丞……」 「へえ、そのうわさなら聞きましたが、それじゃ、下手人は梅之丞と、はっきりしてるんですか」 「だいたいまちがいはないと思うんですが、お仙《せん》ちゃん、お仙ちゃん」  町役人は丸窓からそとをのぞいて、 「おまへここへきて、親分にゆうべのことを申し上げておくれ」  呼ばれてはいってきたのは、丸ぽちゃの、あかいほおをした女中である。  恐ろしそうに、お幸の死体から目をそらしながら、お仙がおどおどと語るところによると……。  ゆうべお幸がやってきたのは、五つ(八時)ごろのことだった。  くるとすぐ酒をめいじて、こんやは泊まっていくかもしれないなどといっていた。梅之丞がやってきたのは、それよりそうとうおくれて、五つ半(九時)ごろのことだった。  そのあいだ、お幸はじれて、ひとりで酒をのんでいたので、梅之丞がきたじぶんには、すっかり酔いがまわっていた。 「わたしはくつ脱ぎのところまで梅之丞さんをご案内すると、そのままひきさがりました。それきり、お手は鳴りませんでしたが、こんやは泊まっていくかもしれないとおっしゃったことばがありますので、べつにふかくも怪しまず、おじゃまをしてはいけないと……」 「けさまでひかえていたんだね。そして、けさおまえさんが、これを見つけたのは……?」 「五つ半(九時)ごろのことでした。あまりごゆっくりなので、ようすを見にくると、おかみさんの下駄がありません。へんに思ってのぞいてみると……」  お仙はあおくなって、肩をふるわせる。 「それじゃ、甲州屋のおかみさんと梅之丞は、ときどきここで会っていたのか」 「はい、もうだいぶいぜんから、ときどきおみえになりました」 「ゆうべきたのは、たしかに、梅之丞にちがいなかったろうな」 「はい」 「おまえ、はっきり顔を見たのか」  お仙はびっくりしたような顔をして、 「いえ、あの梅之丞さんは、いつもあずき色の頭巾で顔をかくしていらっしゃいますので……ゆうべにかぎったことではありません」 「しかし、顔はみずとも、声はきいたろう。梅之丞はなにかいったか」 「いえ、あの、そうおっしゃれば、ゆうべは、ひとこともおっしゃらずに、ただ、もう、見振りだけで……」  お仙はみょうな顔をしていたが、それを聞くと、佐七はにんまり、ほおにえくぼをうかべていた。  血染めの頭巾   ——あたしが殺されるところでした 「滝次郎さんですね。さぞ、びっくりなすったでしょう」 「はい、もう、びっくりしてしまって、なにがなにやらわかりません」  ことし十八の滝次郎は、月代《さかやき》のあとも青く、色白の、女のように華奢《きゃしゃ》なわかものだった。 「おまえさん、おっかさんと梅之丞のことは知っていなすったかえ」 「はい、かねてから、うわさはきいておりました。それで、たびたびご意見もしたんですが……」 「そうそう、おまえさんは、梳子《すきこ》のお半がおっかさんに艶書《ふみ》を渡すのを見たんですってね」 「はい、あれは一昨日のことでした。それで、きのうお竹さんのところへいって、そんなことをしてくれちゃ困るといってきたんです」 「おまえ、ゆうべは家にいたかえ」 「はい、あの……家におりました」  だが、そういう声はかすかにふるえて、顔色がまゆずみをはいたように青ざめた。佐七はなにかいおうとしたが、そこへどやどやとやってきたのが辰と豆六で、 「親分、湯島から座頭の中村三右衛門さんをつれてきましたが、梅之丞は二、三日まえから、ゆくえをくらましているそうです」 「なに、二、三日まえから……?」  佐七はふっとまゆをひそめたが、 「いや、ご苦労、ご苦労。それじゃおまえたち、この離れ座敷から裏木戸のほうを調べてくれ。梅之丞はそっちへ逃げたらしいんだ。ああ、おまえさんが三右衛門さんですね」 「はい、わたくし、三右衛門でございます」  たとえ下等な宮芝居でも、座頭ともなれば、さすがに貫禄《かんろく》がそなわっている。  三右衛門は、ゆったりとした口のききかただった。 「いや、ご苦労さま。ときに、いま聞きゃア、梅之丞が姿をくらましたそうですが、いつから……」 「さきおとといからでございます。さきおとといの晩、出かけたきりかえってこないので、心配していたところでした」 「どこへいったのかわかりませんか」 「さあ、それが……女に会いにいったらしいんですが、相手がどこのどなたやら……」 「梅之丞には、姿をかくさねばならぬようなうしろ暗いわけでもあったんですかえ」 「とんでもない。あれはもう、ごく気のいい、やさしい男でございました」 「甲州屋のおかみさんのことは、知っていなすったんでしょうね」 「はい」 「越後屋のほうはどうなんです。あっちもひどい熱のあげようだったという話だが……」 「あちらさんにも、かわいがっていただいていたようです。こんなことをいうと、さぞあさましくお思いでしょうが、人気稼業の悲しさは、なによりごひいきがたいせつですから」 「そこにある下駄は、梅之丞のものですか」 「はい、おとといはいて出たものです」  そこへ辰と豆六がかえってきて、 「親分、池のはすのあいだに、こんなものが捨ててあったんですが、これゃアもしや、梅之丞のものじゃありませんか」 「ああ、それは梅之丞の頭巾です」  あずき色のその頭巾には、べっとりと血がついている。佐七はだまって考えていたが、なに思ったのか、にわかにはたとひざをうつと、 「いや、これはよいものが手にはいった。辰、豆六、大事にしまっておけ。それじゃ、ここはこれくらいにしておこう」  と、それから間もなくうれし野を出て、やってきたのは黒門町。ただし、甲州屋ではなく、越後屋のほうだった。  越後屋のお栄も、お幸のことはきいているらしく、青いこめかみに頭痛膏《ずつうこう》の白梅をはっていた。  なるほど、お幸におとらぬよい器量で、年増女の色気がむせっかえるようである。 「親分さん、お幸さんがたいへんだったんですってね。あたしなんだか命拾いしたようで、ゾーッとしているところなんです」 「え、おまえが命拾いをしたというのは?」 「親分さん、梅さんのことはおききでしょう。あたしもゆうべ梅さんと会う約束になっていたんです」  お栄もさすがにまぶたを染めていた。 「それをおまえが、すっぽかしたのかえ」 「いいえ、すっぽかしたのはむこうです。あたしはいつものところで四つ(十時)まで待っていたんですが、音さたがないので、おこってかえってきたんです。でも、すっぽかされてよかったんですね。もし、会うていたら、あたしがお幸さんのかわりに……」  お栄はゾーッとしたように、肩をすぼめる。 「いつものところというのは?」 「池の端の隠居所が空き家同然になっているものですから、そこでときおり……」 「なるほど。しかし、梅之丞はなんだって、お幸さんを殺したんでしょうねえ」  お栄はちょっとためらったのち、 「梅さんはちかごろ、なにか江戸にいられぬわけができたらしく、上方へ修業にいってきたいから、路銀のくめんをしてほしいという話でした。ほんとうをいうと、あたしは梅之丞がすきでもなんでもなかったんです。お幸さんとの意地ずくから、つい、あんなことになったんですが、ここいらが潮時だとおもっていたので、手切れ金のつもりで、五両ぐらいなら出そうと約束して、それをゆうべ持っていったんです。梅さんはきっと、お幸さんにも無心を吹っかけ、あっちのほうが金目が多かったので、ゆうべ会うて話をしているうちに、お幸さんにうしろ暗いところをかぎつけられ、そこでひと思いに……」  なるほど、そうきけば話のつじつまがあう。  佐七は無言で考えていたが、思い出したように、 「ときに、甲州屋のなかですがねえ、うまくいっていましたか。お幸と、滝次郎のなかはどうだったんです」  お栄はそれを聞くとはっとしたように、 「まあ、親分はあれをご存じでしたの」 「あれ……? あれとはなんです」 「お幸さんと滝さんが、できあっているということを……」  佐七はおどろいたように目をみはり、 「お幸と滝次郎が……だって、あのふたりは親子じゃありませんか」 「親子たって、ほんとの親子じゃありません。滝さんはあんなに若くてきれいなひとですから、お幸さんがほっておくもんですか。だから、滝さんは梅之丞のことでやきもちやいて、このあいだも付けぶみのことかなんかで、髪結いのお竹さんのところへどなりこんだというじゃありませんか。ほんとに、お幸さんというひとは、ずいぶん達者なひとでしたよ」  目くそ、鼻くそをわらうのたぐいか、お栄は自分のことはたなにあげてせせら笑っていた。  はす茶屋の客   ——寝床に長襦袢《ながじゅばん》いちまいの女が 「親分、梅之丞は、高跳びしやアがったんじゃありませんかね。いまもって、かいもくゆくえがわからねえんです」  あれから、もう三日たっている。  辰と豆六は手分けをして、それぞれ捜索にあたっているのだが、これはと思う端緒をつかめなかった。 「それで、三右衛門はどういっている。梅之丞になにかうしろ暗いところがあるふうか」 「三右衛門はとんでもないと打ち消してますがね。しかし、梅之丞もとんだ男地獄で、お幸やお栄のほかにも、かかりあった女が十何人からあったふうです。そんなことから、首が危なくなったんじゃありませんかねえ」 「ふむ、まあ、そんなことがねえとも限らねえな」  そこへ豆六もかえってきて、 「親分、滝次郎ちゅうやつが、なんや怪しい」 「滝次郎がどうかしたかえ」 「あの晩、お幸が殺された晩、ずうっと家にいたちゅうのんはうそや。お幸が家を出るとまもなく、あいつもこそこそ出かけよって、いっときほどしてかえってきよったちゅう話や。それで、どこへいったちゅうこと、どうしてもいいよらへん。つまり、アリバイがおまへんねん」  まさか、そんなことはいやアしまいが。佐七はだまって考えたのち、 「それで、どうだ、お幸と滝次郎のなかは」 「それがね、諸説紛々、各人各説だんねん。そんなあほらしいこと、というやつもいるし、そういえば、そんなことがあったかもしれん、というやつもある。まあ、どっちゃがどっちゃやらわかりまへんが、ここにひとり、絶対にそんなことはないと力説するやつがおりまんねん」 「だれだえ、それは」 「お菊だす」 「お菊というと?」 「越後屋のもらい娘やがな。これが、滝次郎さんにかぎって、そんなあほなことおまへんと、やっきとなって弁じるんです。こら、いつか兄いのいうたとおりだっせ。お菊滝次郎、いまに道行き心中もんや」  豆六はのんきなことをいってるが、そこへ女房のお粂もかえってきて、 「おまえさん、きいてきたよ」 「ああ、ご苦労、ご苦労、どうだった」 「やっぱり、おまえさんのいうとおり、お半ちゃんも、梅之丞の顔を見ていないんです。あずき色の頭巾で顔をかくして……それに、口もきかなかったそうですよ。お幸さんにあてた艶書《ふみ》を手にもって、ただ手まねで、拝むようなふりをしたきりだったということです」  佐七はふうむとかんがえこんだが、その晩、またひと騒動持ちあがっていたのである。  朝早く、お玉が池の佐七の家を、けたたましくたたくものがあるので、お粂がでてみると、ころげこむようにはいってきたのは、小意気な若者と女中とおぼしい若い娘だった。 「これはねえさんですか。朝早くお起こしして申しわけありませんが、ちょっと親分のお耳にいれておきたいことがございまして……」  なんとなくようすありげな声の調子に、佐七はいうにおよばず、辰と豆六も起きてきた。 「いや、朝っぱらからお騒がせしてすみません。わたしは、上野の出会い茶屋『蓮茶屋《はすちゃや》』のわかいもんで新吉、こちらにおりますのは女中のお房というんですが、ゆうべ、ひと騒動がございまして……ご存じでしょう、黒門町の越後屋の後家さん、あのかたが、ゆうべうちの離れ座敷で殺されかけましたので……」 「なに、お栄が殺されかけたと……?」  佐七ははっと、辰や豆六と顔見合わせた。 「そうなんで、まあ、お聞きください。かようで……」  ゆうべ、蓮茶屋ではそれをお栄だとは知らなかったが、どこか静かな座敷をという注文なので、庭のおくにあるはなれ座敷に案内した。  女客は、その座敷が気にいったらしく、酒のさかなをあつらえると、呼ぶまでだれもこないでほしい。そして、いまにお栄と名ざしてくる男があるから、そのひとがきたら、すぐこちらへとおしてくれという注文だった。  男は小半刻《こはんとき》ほどおくれてきたが、 「それがあなた、友禅の大振りそでに頭巾をかぶった、ひとめで女形《おやま》さんと知れる客。そのとき、わたしどものほうで、すぐ気がつかなきゃいけなかったんです。うれし野さんの話もきいてるんですからね。それを、ついうっかりとして、はなれ座敷へ案内したんです」 「ああ、ちょっと待ってくれ。そのとき、案内にたったのはだれでした」 「それがここにいるお房どんなんで」 「ああ、それじゃお房どんにきくが、そのとき、そいつはなにか口をきいたかえ」 「はい、ただひとこと、お栄さんに……と、それも蚊のなくような小さい声で……あとはいっさい、だんまりでございました」 「それで、おまえさんがはなれ座敷へ案内したんだね。どうだろう、そのとき、はなれにお栄のすがたがみえたかえ」 「いえ、それが……はなれから二、三間手まえまでくると、お客さんが手まねで、もうこれでよいから、むこうへいってくれ、というようなふりをなさいましたので、あたしはそこからひきかえしたんです。でも、お客さんが障子のなかへおはいりになるとすぐ、女の声がきこえましたから……」 「なるほど。それで、お栄が殺されかけたのは?」 「それはこうなんでございます」  と、お房がことばをつづけて、 「そのお客さんを、はなれへご案内してから、小半刻ほどのちのことでした。お仙《せん》ちゃん、ご存じでしょう」 「ああ、知ってる。うれし野の女中だろう」 「はい、そのお仙ちゃんが遊びにきて、このあいだ、甲州屋のおかみさんが殺されたときの、恐ろしかった話をしたんです」 「なるほど。それで……?」 「はい、そのお話をきいているうちに、ふっと、はなれ座敷の男の客のことを思い出したんです」 「つまり、なり、かっこうが、梅之丞にそっくりだってことだね」 「そうです、そうです。あたしゾーッとして、そのことを、おかみさんや、この新吉さんに話したんです。おかみさんも新吉さんもびっくりして、そこでみんなで、そっと、はなれ座敷のようすを見にいくと……」 「なかから、苦しそうなうめき声がきこえるんです」  と、新吉が話をひきとって、 「そこでなかへとびこむと、寝床のうえに、長襦袢いちまいの女の客が、首にしごきをまきつけて、仰向けにひっくりかえってるじゃありませんか」 「それで、梅之丞はどうしたんだ」  と、そばから辰がもどかしそうに口を出す。 「いいえ、男の客は見えませんでした」 「思いがけなく、みんながやってきよったんで、梅之丞め、あわをくって逃げ出しよったんやな」 「辰、豆六、おまえらは黙ってろ。それからどうしましたえ」 「はい、それから医者を呼ぶやら、介抱するやらで大騒ぎをしたんですが、さいわい、お客さんのいのちは取りとめました」 「ああ、それはよかった。それで、お客さんはひとりでかえっていったのかえ」 「いえ、さすがに、それはごむりとみえたので、わたしがお見送りしたんですが、それではじめて、越後屋のおかみさんだと、はっきりわかったんです。おかみさんは、外聞が悪いから、このこと内緒にとおっしゃいましたが、またなにかあるといけませんから、こうして、とりあえず、お知らせにあがりましたので」 「いや、それはよく気がついた。ところで、男のほうだが、お栄はそれを、嵐梅之丞だといったかえ」 「いいえ、わたしどももそのことをいろいろ聞いてみたんですが、おかみさんはことばを濁して……しかし、あれゃたしかに梅之丞です。親分、あいつは片っぱしから、自分の関係した女を殺すんじゃありますまいか」  佐七は、しかし、それには答えず、だまってかんがえこんでいた。  行灯《あんどん》の影   ——お栄は井戸へまっさかさまに  さて、その晩のことである。  越後屋では、もらい娘のお菊も、奉公人もはやくねかせてしまって、お栄はひとりで、奥の寝所へひきこもっていた。  ゆうべ、ああいう騒ぎがあったので、お栄は熱でもでたのか、寝床のなかでさっきから、うつらうつらとしている。  ゆうべしごきでしめられた首のまわりがヒリヒリいたくて、なんだかのどがいがらっぽい。  あらしでもくるのか、おりおり雨戸がガタガタ鳴って、天井裏をものすごくねずみのかけまわる音がする。 「お菊——お菊——」  お栄はこごえで呼んでみる。  しかし、お菊はもう寝てしまったのか、返事はなくて、返事のかわりに、どこかで陰気なふくろうの声がする。  お栄はなんとなくゾーッとして、寝床のなかでえり元をかきあわせた。 「お菊——お菊——」  お栄はもういちど呼んでみた。  しかし、あいかわらず返事はなくて、夜のしずけさ、寂しさが身にしみる。  お栄はお冷やでも飲もうとおもって、寝床から半身をもたげたが、そのまま、凍りついたように動かなくなった。  行灯《あんどん》の灯もときどきかねるほの暗い座敷のすみに、だれやら、しょんぼり座っているのである。  お栄は心臓がふくれあがって、いまにも、のどからとび出すかと思われた。 「だれ……? そこにいるのは……? お菊かえ?」  しかし、あいては返事をしなかった。返事のかわりに、陰気なすすり泣きの声が、きれぎれにつづくのである。  お栄はまっさおな顔をひきつらせて、ゾーッと肩をすぼめたが、ここで弱みをみせてはならぬと、声だけは強く。 「だれだえ、そこにいるのは……? どうして、そんなところで泣いているのさ。顔をおみせ。顔をおみせったらおみせ」  甲走ったお栄の声に、あいてはひょいと顔をあげると、 「おかみさん、わたくしでございます」 「わたくし……? わたくしじゃわからないよ。名をおいい。名前をハッキリいってごらん」 「おかみさん、わたくしが、おわかりじゃございませんか」  蚊のなくような声でそういって、ひとひざ、ふたひざ、にじり出たあいてのすがたを、ほの暗い行灯の灯でみたお栄は、 「あっ。おまえは……」  と、のけぞるばかりに驚いて、 「梅さん!」  と、ガタガタと歯を鳴らせた。  いかさま、におうような友禅の大振りそでに、あずき色のお高祖頭巾。それは、うれし野のお仙や、蓮茶屋のお房のかたる梅之丞にそっくりだった。 「はい、その梅之丞でございます。嵐梅之丞でございますよ」  と、あやしい影はまた、ひとひざ、ふたひざ、お栄のほうへにじりよって、 「おかみさん、こんやは梅之丞が迷うて出ました。おまえさんに、恨みをいおうと迷うて出ました。おかみさん、おまえはようまあ、むごたらしゅう、このわたしを絞め殺しなさいましたなあ。この首を、こののどにのこっているなまなましい跡をごらんくださいまし。おかみさん、なんの遺恨があって、このわたしを……」  あやしい影は、振りそでを目にあてて、さめざめとすすり泣く。それを見詰めるお栄のひとみは、ものにでも憑《つ》かれたようにおびえきっていて、なにかいおうとしたが、ただくちびるがわなわなとふるえるばかりで、ことばは口から出なかった。  あらしのまえの静けさが、鬼気となって膚を刺す。ねっとりとした蒸し暑い夜なのである。 「おかみさん。おまえさんはわたしを、かわいいとおっしゃってくださいました。かわいいから、のどを絞めるのだとおっしゃいました。わたしも、のどを絞められるとうれしくて、もっと強く、もっと強くとせがみました。でも、おかみさんに絞め殺してくださいとは申しません。しかし、こうなったのも、おかみさんがわたしをかわいいと思ってくださったからだと思っております。ただ、お恨みは、わたしがこうして死んでしまったのに、おまえさんがいつまでも生きていらっしゃることでございます。おかみさん、こんやはおまえさんを迎えにきました。わたしといっしょにきてください」  あやしの影は、手をのばして、お栄のそでをとろうとする。  いままでおびえきった目で、あいての姿を見詰めていたお栄の顔に、そのときさっと、紫いろの稲妻が走った。 「なにをするんだ」  お栄はあいての手をふりはらうと、 「おまえは、いったいだれだえ?」  と、金切り声をあげた。 「わたしは梅之丞で……」 「バカなことをいっちゃいけない。おまえが梅之丞であるはずがない。いったい、おまえはだれに頼まれて、こんなお茶番をしているんだ、そして……そして……」  お栄はのどにひっかかったような声音で、 「そのきものは頭巾は、どこで手にいれたんだ」 「このきものと頭巾でございますか。これは池の端にある、こちらさんの隠居所の、柳の根元に埋められていたものでございます」 「畜生ッ!」  お栄がいきなりまくらのしたからとり出したのは九寸五分。抜く手もみせずに、 「これでもくらえ」  突いて出るのを、あやしの影は、あやうく体をひらいてかわしたが、そのとたん、となりの部屋から、 「お栄、御用だ、神妙にしろ!」  お栄はそれをきくと、しまったとばかり、縁側の障子をひらき、雨戸をけちらし庭へでると、井戸をめがけてまっさかさまにザブーン。 「しまった! それ、辰!」  となりの部屋からおどりこんできたのは、いうまでもなく、佐七をはじめ辰と豆六。  うしろにはもらい娘のお菊と、甲州屋の滝次郎が、まっさおな顔をしてふるえている。  辰はすぐにはだかになって、井戸のなかへはいっていったが、とたんに、盆をくつがえしたようなはげしい雨が……。  ひとり芝居   ——お幸の死体はなぜ裸であったか  ぬれねずみになって、井戸のなかからひきあげられたお栄は、かなり水を飲んでいたが、どうやら、命はとりとめるらしかった。  しかし、さすがは女である。水を吐くと、ぐったりと気をうしなって、もう正体はなかった。  佐七はお菊と滝次郎を医者へはしらせると、あらためて、あの大振りそでにお高祖頭巾の怪人物のほうにむきなおった。 「いや、師匠、ご苦労さま。もう頭巾をおとりになってください」 「はい」  とこたえて頭巾をとったのは、梅之丞にとっては師匠にあたる座頭の中村三右衛門であった。 「は、は、は、さすがは役者だ。三右衛門さん、よくできました」 「いや、お恥ずかしゅうございます」 「それにしても、おまえさんも驚いたろうが、おいらもドキッとしましたよ。まさか、お栄が刃物を持っていようたア思いませんでしたからね。よく、まあ、うまく体をひらいたものだ」 「いや、舞台のイキで、おもわず体をかわしましたが、すんでのことに土手っ腹に風穴をあけられるところでございましたよ」  三右衛門はにが笑いをして、 「しかし、親分、それじゃやっぱり、梅之丞はこちらのおかみさんに殺されたんでございますね」 「師匠、おまえさんには気の毒だが……」 「いえ、さっきも池の端の隠居所で、あいつの死骸が掘り出されたときには、肝っ玉がでんぐりがえるほどびっくりしましたが、しかし、それでも、よもや、こちらのおかみさんがと思っておりましたのに……それじゃ、甲州屋のおかみさんを殺したのも、やっぱり、お栄さんだったのでございますか」 「そうですよ」 「そうでしたか。わたしはむしろ、甲州屋の養子の滝次郎さんが怪しいと思っておりましたのに……滝次郎さんが梅之丞に化けて、義理の母を殺したんじゃないかと思っておりました」 「いや、その考えは、おまえさんばかりじゃありません。辰や豆六も、そう考えていたようです。それというのが、お幸が殺された晩、滝次郎さんもいっとき家をあけながら、それをひたかくしにかくしていたからですが、なに、あれアなんでもねえんで、滝次郎さんはお菊さんと、あいびきしていたんですよ。しかし、それが露見すると、お菊さんが越後屋から追い出される心配があったので、滝次郎さんはあくまでもかくしおおせようとしていたんです」 「なるほど、しかし、親分さんはお幸さんが殺されたじぶんから、梅之丞も殺されていることをご存じでございましたか」 「いや、殺されたかどうかは二のつぎとして、梅さんはとても生きてはいまいと思いましたよ。どれ、それでは、なぞ解きをしましょうか。辰、豆六、おまえたちもききねえ」  と、そこでまたしても、例によってれいのごとき佐七のなぞ解きなのである。 「お幸が殺されたとき、あっしが梅さんも生きてはいまいと思ったのは、お幸のあの死体からです」 「親分、お幸の死体からとおっしゃいますと……?」 「いや、なに、おまえも知ってのとおり、お幸はすっばだかにされて、きものがどこにも見当たらなかったろう」 「へえ、へえ、親分、あれ、どないしよったんです」 「つまり、下手人が持っていったとしか思えねえんだが、では、なぜ、下手人がきものをはいでいったか、物取りだろうか……」 「いや、親分、物取りなら、まくらもとの紙入れや、櫛《くし》こうがいも持っていくはず」 「そうだ、辰のいうとおりだ。そこで、きものを持ってったのが物取りでねえとすると、なんのためだろう。あっしにもそれがわからなくて困ったが、そこへ辰と豆六が見つけてきたのが血にそまった頭巾、それで、おいらにゃなにもかも読めたのさ」 「へえ、どういうふうに読めたんで」 「つもってもみねえ。いかに度胸のよいやつでも、人殺しをしたあとで、血のついた頭巾をかぶってあるくことはできめえ。そこで頭巾を捨てていったんだが、これがほんとの梅之丞なら、頭巾がなくてもかまわねえわけだ。女形《おやま》が大振りそでをきているのはあたりまえのことだし、人殺しがあったことは、まだだれにもわかっていねえんだからな。ところが、これが梅之丞じゃなく、たとえば辰だとしたらどうだえ。辰のそのつらだって、頭巾で顔をかくしていれゃ、大振りそでをきてたって、べつにおかしかアあるめえ」 「親分、そのつらはねえでしょう」 「はっはっは、まあいいや。負けとけ。しかし、頭巾がなくなって、その野郎頭で、大振りそでをきてあるいてみねえ。いかに夜中だってひとめにつかあ」 「そらそや。バカか、気ちがいやとおもて、ひとがゾロゾロついてくるがな」 「そうだろう。それだから仕方がねえ。大振りそでをぬいでいかにゃアならねえが、そうなると、かわりのきものがいる。といって、まさかそんなことになろうたア思ってねえから、かわりのきものなど用意しちゃいねえや。そこで、仕方がねえから、お幸のきものをはいで着ていったんだが、そうすると下手人は女、それもお幸のきものを着ててもおかしくねえ年ごろの女ということになる」 「なるほど」  三右衛門は、感にたえるようにひざをたたいて、 「ご明察恐れいりました。なるほど、お栄さんのその髪かたちじゃ、大振りそでは着てあるけませんからね」 「それもあります。しかし、ほんとをいうと、お幸殺しの下手人は女じゃないかという疑いが、ふっとあっしの頭をかすめたのは、それよりさきのことなんです」 「とおっしゃいますと……?」 「辰、豆六」 「へえ、へえ」 「おまえたちがうれし野の離れへやってきたときには、お幸の死骸にはもう、掛け布団がかけてあったろうな」 「ああ、そうそう。あの死骸、見つかったときにゃなにもかもむきだしだったそうじゃありませんか」 「そやそや、たった一枚身につけてお腰もへそのうえまでまくりあげられ、まるで丸裸もおんなじやったちゅう話だしたなあ」 「それよ。下手人が男なら、腰まきぐれえは合わせていきそうなもんだと思ったんだ。あれじゃまるで、殺したあとまであいての女に赤っ恥をかかせてやろうという魂胆としか思えねえ。その執念ふかさというか、陰険さというか、あいての女にたいするひとかたならぬ憎しみからして、これゃ下手人は男じゃなく、ひょっとすると女じゃアねえかと思ったんだ」 「あっ、なるほど」 「そしたら、そのあと、きものの一件があったもんだから、ああ、やっぱりこれゃ、下手人は男じゃなくて女だと、だいたい見当がついたんですね」 「いや、よくわかりました。それで……?」 「さて、こうしてお幸を殺したのが梅さんじゃなくて女だとすると、では梅さんはどうしたのか。三右衛門さんのことばじゃ、あの下駄は梅さんのものだという。下手人のきてきたきものも、どうやらそうらしい。もし梅さんが達者でいれば、じぶんの衣装をきて、人殺しをされちゃ黙ってはいますめえ。また、下手人だって、そんな危ねえことはするはずがねえ。だから、あっしゃ梅さんはもう生きていねえなと思ったんです」 「なるほど。いわれてみれば、いちいちごもっともです。すると、梅之丞はゆくえがわからなくなった晩に、池の端の越後屋の隠居所で、お栄さんに絞め殺されたんですね」 「そうです、そうです。しかし、そのときお栄はけっして梅さんを殺すつもりじゃなかったんでしょう。よくあるやつで、あたりまえのふざけかたじゃ物足りなくなり、あの手、この手と、クスリをきかしているうちに、つい度がすぎて、絞めころしてしまったんでしょう。だから、それに気がついたときにゃ、お栄はどんなにおどろいたことでしょう。なんとか罪をのがれようとして、隠居所の庭のすみに梅之丞の死体をうめたんですが、それでもまだ心配だったので、梅さんが生きているようにみせかけようとしたんです。そこで、衣装やきものをのこしておいて、じぶんがときどき梅さんになってみせようとしたんですが、そのとき、ふっときざしたのがお幸殺しです」  佐七は辰と豆六をふりかえって、 「お栄はいつか言ってたろう。じぶんは梅之丞にほれちゃいなかった。みんなお幸との意地っ張りから、こんなことになったのだと、それよ、万事がお幸から出発していた。お幸との立て引きから、梅之丞とこんなことになり、あげくのはてには、人殺しまでしてしまった。それもこれもお幸のためだ。お幸さえいなくなれゃア、こんなことにならなかったのに……と、そう考えると、お幸が憎くて憎くてたまらなくなり、とうとう殺す決心をしてしまったんだ」 「そこで、梅之丞のすがたをかりて、お半に会い状をことづけたんですね」 「そうです。梅之丞の艶書《ふみ》は、じぶんもたびたびもらっているから、その筆くせをまねりゃアよかった。そして、うれし野へお幸をよび出し、じぶんはわざとおくれて、お幸がじれて酔っぱらってるところを見計らって乗りこみ、床いそぎをするふうをみせ、相手が帯をといたところを、しごきでぐっと……そのとき、お幸が苦しまぎれに、お栄の頭巾をむしりとって、そのうえに血を吐いたのが、お栄のいのち取りになったのよ」 「なるほどね。すると、ゆうべの蓮茶屋の一件は、みんなお栄のひとり芝居だったんですね」 「そうですよ。お栄はあくまで、梅之丞が生きてるようにみせかけようとした。それとどうじに、じぶんも梅之丞に、殺されかけたということになりゃ、疑いをうける心配はねえと思ったんです。ゆうべお栄は蓮茶屋のはなれへ案内されると、すぐ裏からぬけ出し、隠居所へいって、そこにかくしてあった梅之丞の衣装を着て、ふたたび蓮茶屋の表からやってきた。それからはなれへはいると、女中の立ちさるのを待って、またぞろうらから隠居所へいき、もとのお栄になってこっそりはなれへまいもどると、長襦袢いちまいになり、みずからしごきで首をしめてみせたのさ。つまり、こうしてあくまでも梅之丞がまだ生きているようにみせようという寸法だったんですね」 「いや、よくわかりました」  三右衛門は悄然《しょうぜん》として、 「さっき、池の端の隠居所で、梅之丞の死体が掘りだされたときにゃ、わたしも肝をつぶしておどろきましたが、考えてみると、いつまでも生きてるものやら死んだやらわからずに気をもんでいるよりましかもしれません。この振りそでがあいつの形見になりましたが、その形見でかたきを討ったと思えば、あいつも少しは浮かばれましょう」  三右衛門はその振りそでで、そっと目がしらをおさえた。  お栄は医者の介抱で、そのごまもなく息をふきかえしたが、しかし、二度ともう正気にはもどらなかった。  そして、気のくるった身を、はだか馬にのせられて引き回しのうえ獄門になったときには、江戸中の後家のいましめとなったという。  この一件がもとで、甲州屋と越後屋はともにつぶれたが、そののちまもなくおなじ場所に、甲越屋というのが復活して大いに繁盛したということだが、甲越屋の主人というのは、いうまでもなく滝次郎、おかみさんはお菊であった。     三日月おせん  女|葛籠《つづら》詰め   ——短刀の根もとには一枚絵が 「親分、親分、どこかで一杯、飲みなおそうじゃありませんか。あっしゃ、胸くそがわるくてたまりませんや」 「辰、なにが胸くそがわるい」 「だってさ、豆六のくさい口ですすった茶わんがまわってきたときにゃゾーッとしましたぜ。なんの因果で、こんなきたねえものを飲まなきゃならねえのかとおもうと、涙がこぼれそうでした。ああ、思い出してもむかむかする」 「兄い、えらいいわれようだんな。そんならわてもいわせてもらいまほか。風邪をひいてんねやさかい、むりもないというようなもんの、茶わんのなかへ、兄いの水っぱながひとしずく」 「わっ、ま、豆六、そりゃほんとか」 「ほんとだすとも。それをまた、親分がなんにもしらずに……えらいまあお気の毒なこっちゃ」 「わっ、気持ちのわるい、ぺっ、ぺっ!」 「親分、うそですよ。うそですよ。豆六が、いいかげんなこといやアがるんです。それゃ、水っぱながたれそうになりましたが、これをたらしちゃ親分にすまぬと、死に身になってこらえたんです」 「もういい、もういい、聞けばきくだけ、胸くそがわるくなる」 「そやさかい、親分、茶の湯なんて、ええかげんによしなはれ。そら、あんさんは名士になったつもりで納まってはんのかもしれまへんけんど、お供をおおせつけられるわてら、窮屈でかないまへんわ」 「そうだ、そうだ。これは豆六のいうとおりだ。あっしら、茶の湯ときくと、ゾーッとする。いっぺんおあいてをつとめると、寿命が三年ちぢまります。十ぺんつきおうたら三十年、あすあたりですぜ、親分。おまえさんは子分を殺す気ですかい」 「あっはっは、よした、よした。茶の湯のたんびに、辰の水っぱなをすすらされちゃたまらねえ。もうこんりんざいやるもんか」 「しめた、それじゃ一杯口直しに……」 「おお、やろう、やろう、なんだか胸がむかむかしてきた」  秋立つと目にはさやかに見えねども、風の音にもおどろかれぬる、まだ残暑のほてりに身をもてあます秋のはじめの夜更けのこと。  まっくらがりのお茶の水の崖上《がけうえ》を、いましも、がやがやいいながらやってきたのは、いわずとしれたお玉が池の佐七の一家、話のもようによると、どこかの茶の湯へ招かれてのかえりらしい。  それにしても、この三人が茶の湯とは、はなはだもって噴飯ものだが、人間だれしも名がでると、名士気取りで、お上品なことがやってみたくなるものらしい。佐七もいささかそのきらいなきにしもあらずだが、これは、辰や豆六がこぼすのもむりはない。 「よした、よした。こちとらにゃやっぱり茶の湯より茶わん酒のほうが性にあっているようだ。辰の水っぱなをすすらねえだけでもましだ」 「まだ、あんなことをいっている。水っぱなはうそですよ。だけど……おや」  とつぜん、辰が足をとめたから、佐七と豆六もおなじように立ちどまり、 「辰、どうした」 「兄い、どないしやはってん」  辰はしかしそれには答えず、きっと前方のやみをすかしていたが、だしぬけに、崖っぷちにはえている柳の根もとへかけだすと、 「やい、てめえ、こんなところでなにをしている。やっ、てめえ、おれを切る気か」  暗がりのなかに、辰の声がつっ走ったから、おどろいたのは佐七と豆六だ。 「辰、ど、どうした」 「親分、あやしいやつだ。豆六、ちょうちんをみせろ」 「おっと、がてんや」  ちょうちんをもった豆六が、ばらばらと駆けだしていくむこうから、 「ええい、わるいところへ……」  と、舌打ちするような声が聞こえたかとおもうと、どすんばたんとひどい地響き、 「わっ、親分、助けてえ!」  辰の声である。 「あ、兄い、どないしやはった」  豆六はへっぴり腰で、ちょうちんをさしだしたが、それをいきなり横なぐりに払われたからたまらない。ばっさり落ちたそのはずみに、ちょうちんの灯がもえきれて、あたりはいよいよまっ暗がり。  その暗がりのなかを、ひとつの影が、地をはうようにかけぬけていく。 「おい、待て!」  佐七がいきなり、うしろからえりをとらえた。 「なにを!」  くせ者はふりむきざま、匕首《あいくち》さかてについてかかる。佐七は二、三合わたりあったが、なにしろ、鼻をつままれてもわからぬような暗がりのこと、それに、雨あがりの土がぬかるんで、思うようにはたらけない。  くせ者はとうとう佐七をつきはなし、雲をかすみと逃げてしまった。 「しまった、とうとうとり逃がしたか。おい、辰、豆六」 「親分、親分、助けておくんなさい」 「どうした、どうした、豆六、はやくあかりをつけろ」 「へえ、いま、ちょうちんをさがしてるとこだす」  豆六がやっとあかりをつけると、なんと、辰は大きな葛籠《つづら》の下敷きになって、目をしろくろさせている。  佐七はきらりと目を光らせて、 「おい、辰、この葛籠はどうしたんだ」 「さっきの男が背負うていたんです。そいつをうしろから抱きついたら、いきなり葛籠をはずしゃアがったんで、はずみをくらってこのざまです。おい、豆六、はやく起こしてくれ」 「あっはっは、こら、とんとさるかに合戦やがな」  豆六がわらいながら、葛籠をのけてやると、辰はどろだらけになって起きあがった。 「畜生、ひでえめにあわしゃアがった。親分、めっぽうおもい葛籠ですぜ」 「辰、豆六、ひらいてみろ」 「へえ」  葛籠にはがんじがらめに網がかかっている。その網をといて、ぎちぎちと鳴るふたをとり、ちょうちんの灯をさしつけたとたん、三人はおもわずぎょっと息をのんだ。  葛籠のなかからあらわれたのは、みるもむざんな女の死体だ。としは二八か、二九、ふるいつきたいようなべっぴんである。 「親分、短刀でえぐられたんですね。ほら、まだ乳房のあいだに突っ立っている」  なるほど、乳房と乳房のあいだから、短刀の柄がのぞいている。 「おや」  と佐七はまゆをひそめて、 「辰、あの短刀の根もとにゃ、なにか突きさしてあるじゃねえか」 「あれ、ほんとうだ。親分、あれゃ錦絵《にしきえ》ですぜ」 「よし、短刀をぬいてみろ」  辰が短刀をぬくと、それといっしょに、短刀の根もとにつきさしてある錦絵もいっしょにぬけてきた。佐七はその錦絵を短刀からはずして、ちょうちんの光でながめていたが、 「おい、辰、豆六、これゃいま、深川の八幡前でひょうばんの矢取り女、三日月おせんの一枚絵だぜ」 「あっ、そ、そういやア、親分、ここに殺されているのは三日月おせんだ」  三人はおもわず顔を見合わせた。もう茶の湯どころではない。  十両と割り笄《こうがい》   ——娘を殺したうえに孫までも  そのころ、深川八幡前の矢取り女、三日月おせんというのは、江戸でもひょうばんの人気者だった。  矢取り女は、客といっしょに弓を引くばあい、客はおおむね右利きだから、矢取り女は左で引く。これが客にたいするお愛想になっているのだが、おせんはことし十八歳、左利きで、客のあいてをするその姿態に、たまらぬあいきょうがあるとあって、おせんの矢場には客がたえなかった。  ことに、この春、浮世絵師の春川|豊麿《とよまろ》が一枚絵にかいて売り出してからというもの、嬌名《きょうめい》天下にとどろいて、信心も不信心も、いちどはおせんの艶姿《えんし》をおがんでおこうと押しよせたから、おかげで八幡様も大繁盛。  さて、このおせんにどうして三日月という異名があるかというと、おせんのあごにうっすらと、三日月型の傷がある。  なにがさて、玉のようにきれいな顔だから、ささいな傷でも目につきやすい。  どうしてあんな傷ができたのかと、いつの世にもたえないのはものずきで、じかにおせんに当たってみたが、おせんは笑ってこたえなかった。  こたえなかったのも道理、おせんも傷の由来をしらないのだ。おせんが物心ついたじぶんから、傷はちゃんとそこにあり、だれもその由来をおしえてくれるものはなかった。  しかし、いつの時代でも美人はとくなもので、のちには、この傷跡さえ売りものになって、いまでは、三日月おせんといえば、知らぬものもない。  そのおせんが殺されたというのだから、さあ、江戸中は大ひょうばん。  さて、お茶の水でおせんの死体が発見されたその翌日のこと、八幡裏のおせんの住まいへたずねてきたのは、いわずとしれた佐七である。辰と豆六もついている。 「親分さん、ゆうべはいろいろとありがとうございました」  おせんは幼いころに両親をうしない、そのごは祖母の手ひとつで育てられた。その祖母のお紋というのが、佐七の顔をみると、はや涙である。 「おっかさん、おせんちゃんのなきがらは、さげわたされたか」 「はい、親分さん。これもなにかの因縁とおぼしめし、線香でもあげてやってください」 「そうか、それじゃ拝ませてもらおうか」  おくへとおると、悔やみの客がおおぜいつめかけていたが、三人の姿をみると、ゾロゾロと出ていった。佐七は線香をあげると、お紋のほうへむきなおり、 「ときに、おっかさん、ゆうべはおまえさんがあまりとり乱しているので、わざと、なにもきかずにかえったが、どうだえ、おせんを殺した下手人について、なにか心当たりはねえか」 「はい、それが、いっこう……わたしの口から申すのもなんですが、あれはもう、ほんとうに気立てのよい娘で、あんな商売をしておりましても、いままで浮いたうわさひとつございませんでした。それを、だれがこのようにむごたらしゅう……親分さん、わたしゃくやしゅうございます」 「しかし、おっかさん。こういっちゃ悪いが、いかに堅いといったところで、ああいう稼業をしていれば、いい男のひとりやふたりは……」 「それは、あの、お客さんのほうからいろいろとおっしゃってくださることもございましたが、あれはまだほんの子どもで、けっして浮いた話はございませんでした」  お紋がきっぱりいいきったときである。悔やみ客のひとりが、おもての間から顔をだして、 「お紋さん、いまおもてから、どなたかこんなものを投げこんでいきましたぜ」  と、持ってきたのは小さなふろしき包み。お紋はふしぎそうにそれを開いたが、とたんに、はっと顔色がかわった。なかから出てきたのは小判十両。しかも、それには、 「おせん殿お弔い料」  と書いた紙がそえてある。 「あれ、まあ、だれがこのような大金を……」  お紋はあきれてもういちど、ふろしき包みに目をやったが、すると、そこに妙なものがある。それは一本の笄《こうがい》を、まんなかからふたつにわった割り笄で、波に千鳥の図があしらってある。  お紋はそれをみると、のけぞるばかりにおどろいた。 「あ、そ、それじゃ、おせんを殺したのは、あいつだったのか。娘を殺したそのうえに、また、孫までも……」  お紋がわっと泣きだしたから、佐七はおもわず、辰や豆六と顔見合わせた。  お歌の情人《いろ》   ——あの人のそばにいるとゾーッとして 「これ、おっかさん、どうしたんだ。おまえ、この割り笄《こうがい》におぼえがあるのか」 「はい、あの、それは……」 「おいおい、おっかさん、いまさら、かくし立ては水臭いじゃないか。おまえ、いま、なんとかいったな。娘を殺したそのうえに、また、孫までも……と。それゃいったいどういうわけだ」  つめよられて、お紋は当惑したように、顔をしかめていたが、やがて決心したように、 「親分さん、それでは、なにもかも申し上げてしまいます。そのかわり、これはいっさい内密で……」  と、そう前置きをしておいて、お紋がぼそぼそ語りだしたのは、つぎのような、世にもふしぎな話だった。  お紋はもと草加《そうか》宿のもので、むかしは相当なくらしをしていたが、二十年ほどまえ、亭主の弥兵衛というものに先立たれ、あとにのこされたのが、卯之助《うのすけ》、お歌という兄妹である。  卯之助は当時二十一、お歌は七つちがいの十四だったが、どう魔がさしたか、おやじが亡くなってから、卯之助がしだいにぐれ出したのである。飲む、打つ、買うの三拍子、さんざんおふくろを嘆かせたあげく、ひとを傷つけて出奔した。  あとにのこったお紋親子の嘆きはいうまでもない。屋敷田畑はいつのまにやら卯之助が売りとばしていた。面目なくて故郷にもいられず、それに風のたよりにきくと、卯之助は江戸にいるらしいというので、お紋もとうとう家をたたんで江戸へ出てきた。  そのときお歌十六、のちにおせんの母になるだけあって、それはきれいな娘であったと、お紋は涙ながらに物語る。  さて、江戸へ出てきたものの、もとよりたくわえとてあろうはずはなく、お歌はまもなく、湯島の境内の銀杏《いちょう》茶屋から茶くみ女として出ることになった。  いまからちょうど二十年まえの話である。  おせんがそうであったように、銀杏茶屋のお歌も、たちまち江戸中のひょうばんになった。ことに、春川|豊麿《とよまろ》がお歌の艶姿《あですがた》を一枚絵にかいて売りだしていらい、江戸中でお歌の名を知らぬものはないくらいになった。  だが、そうなっても、お歌がかたときも忘れないのは、兄、卯之助のことだった。卯之助とお歌は、ひともうらやむ兄妹仲だったから、お歌はなんとかして兄をさがしだしたいと苦労していた。  しかし、その兄のゆくえもわからぬうちに、一年とたち、二年とすぎて、お歌は十八、持ってうまれた美貌にいよいよみがきがかかってきた。  こうなると、当人はいかにかたくとも、世間の男がすてておかない。いいよる男もおおかったが、そのうちにとうとう、お歌に憎からぬ男ができた。お武家であった。 「わたしはいまでもそのひとを、よくおぼえておりますが、としのころは三十五、六、としからして、倍ほどもちがっておりました。色の浅黒い、おひげをそったあとの青々とした、肩幅のひろい、胸板のあつい、いかにもたくましそうな足腰をもった、まあ、ひとくちにいって、たのもしそうな殿ごぶりでございました」 「それで、そのお武家というのはお膝下《ひざもと》かえ。それとも勤番の衆かえ」 「いえ、それがとうとう、わからずじまいでございますが、勤番のかたとは思えませんでした。武骨ながらも、どこかあか抜けしたところがおありのうえ、ことばにも、なまりがございませんでしたから、やっぱりお旗本だったのではございますまいか」 「ふむ、ふむ、それで……」 「わたしもちょくちょく、湯島の茶屋でお目にかかったことがございますが、日ごろはいたってさばけたかたで、剛腹というんですか、磊落《らいらく》というんですか、そういうことばがぴったりするようなかたでございましたが、それでいて、どうかすると、なにかこう、ゾーッとするような、気味のわるいところのあるお武家様でございました」  佐七は辰や豆六と顔見合わせて、 「その、ゾーッとするというのはどういうんだ」 「いえ、それが、親分さん、ことばではどういってよいかわかりませんが、いつもにこにこしながら、若い娘たちの話をきいていらっしゃるそのかたが、話の切れめなんかに、フーッと考えこまれることがございます。そんなとき、ゾーッとつめたい風にでも吹かれるような気がいたしまして……」  お紋はそれがなぜであるかわからなかったが、お歌はかえって、その男のそういう暗い影のようなものに打ちこんだらしい。ちょくちょく、家をあけるようになった。  母のお紋は気をもんで、あのお武家だけはよしておくれ、身分もちがうし、年もちがう、しょせん、夫婦になれっこないのだからと、かきくどいたが、のぼせきったお歌はとりあわなかった。それでいて、お歌もあいてを、どういう素性のものかしらなかった。名まえは浅井鉄馬といったが、それさえ本名かどうかわからなかった。 「おっかさん」  と、ある日、お歌はしずんだ顔色でいった。 「おっかさんに言われるまでもなく、あたしだってあのかたの妙なことはしっています。あのかたといっしょにいると、ときどきゾーッと、水をあびせられたような気になることがあるんです。それに、夜中にうなされることがあるんですが、そのときの寝顔のすごいこと……」  お歌はぞっと肩をすぼめながら、 「しかし、おっかさん、わたしはあのかたを忘れることはできません。あのかたと切れるのは死んでもいや。おっかさん、かんにんして」  お歌はそういって泣くのである。  お紋はいよいよ娘の身が心配になった。なんとかして、あいての身分素性をしりたいと思った。しかし、お歌とそういう仲になっていらい、鉄馬はいちども、銀杏茶屋へ姿をみせなかった。いつも、お歌のほうからでむくのである。  そこで、ある日、お紋はおもいきって、こっそり娘のあとを尾行した。ふたりがどういうところで会っているのか、それがわかれば、あいての素性もわかるかもしれない……。  その日、お歌はれいによって銀杏茶屋をはやめにしまうと、湯島からお茶の水へでた。秋もおわりのたそがれごろ、つめたい時雨が降っていた。  お歌はお茶の水をこえると、駿河台《するがだい》へ足をむける。そのへんは屋敷町になっていて、ずらりと武家屋敷がならんでいる。お歌はやがて、たかい崖《がけ》のうえにたっている一軒のお屋敷のなかへはいっていった。  お紋もあとからお屋敷のまえまでかけつけたが、そのとたん、胸もつぶれる気持ちだった。それというのが、そのお屋敷のたたずまいが、なんともいえぬほどものすごいのだ。軒はかたむき、かきねはやぶれ、のぞいてみると、庭には名もしれぬ雑草がいっぱい。  お紋はあまりの気味わるさに、小半町ばかり走りすぎたが、それでもやっぱり気になるので、とおりかかった折り助に、そのお屋敷のことをたずねてみたが、折り助の答えをきいたとたん、お紋は土色になってしまったのである。 「ばあさん、あのお屋敷の名をきいてどうするんだ。あれゃアな、もとは河井|伊織《いおり》さまというお旗本のお屋敷だったが、その伊織さまというのが、八年ほどまえに気がくるって、奥方を切りころし、じぶんも首をはねて死んでからというものは、幽霊が出るの、あやしい声がきこえるのと、おなごどもは昼でも、あのお屋敷のまえを通るのをいやがるのさ」  愛欲変相図   ——男の体は燃えに燃えて  お紋はそれをきくと、気も狂いそうであった。いっそこのままかえってしまおうかとも思ったが、やっぱり娘の身が案じられた。  お紋はとつおいつ思案にくれながら、半刻《はんとき》(一時間)あまり屋敷のまわりをうろついていたが、とうとう思いきって、さっきお歌がはいっていった通用門から、こっそりなかへ忍びこんだ。  時刻はそろそろ五つ(八時)ごろ。秋のおわりというよりも、冬のはじめといいたい季節の、日はもうとっくに暮れてしまって、うす気味わるい屋敷のなかはまっ暗である。  忍びこんだものの、お紋はとほうにくれたように、しばらくそこに立ちすくんでいたが、そのうちにようやく目がやみになれてきた。それに、空には薄明がただよっているので、鼻をつままれてもわからぬというような暗さではない。  その薄明をバックにして建っているその空き屋敷は、そうとうの構えである。もとここに住んでいた河井伊織というのは、どういう身分だったかしらないが、そうとうのご大身だったにちがいない。屋敷のひろさは、千坪ちかくあるのではないか。  そのなかに、むかしは御殿のような家が建っていたのであろうが、いまはその大きな屋根のうえにペンペン草が立ち枯れて、風にそよいでいるのもものすごい。  お紋は足もとに気をつけながら、当てもなくそろそろ歩きはじめたが、ひとが住まなくなってもう七、八年。こうも荒れるものかと思われるばかり。どの建物も軒はかたむき、雨戸はなく、庭には丈なす雑草がおいしげっている。これはしぜんに荒廃したばかりでなく、ひと住まずとみて、無頼の徒が盗んでいくのであろう。  江戸時代には、こういう空き屋敷や荒れ寺があちこちにあって、それがよからぬやからの巣になることがよくあったそうである。  お歌のことが気づかわれるあまり、お紋はついうかうかとこの空き屋敷のそうとう奥ふかくまで踏みこんだが、どちらをみても荒れほうだい、お紋はきゅうに気味わるくなり、心細くもなってきた。  それに、お紋はさっきから全身を耳にして、あたりのようすに気をくばっているのだが、ひとの気配はさらにない。  お歌がここへしのびこんでから、もう半刻(一時間)以上はたっている。ひょっとすると、男と首尾をすまして、じぶんといれちがいに出ていったのではあるまいかと、お紋がきびすをかえそうとしたとき、どこからか絶えいるようなうめき声がきこえてきた。  お紋がはっとして立ちどまると、二度三度、うめき声が世にも苦しそうな尾をひいて、絶えいるようにきこえてくる。いや、いや、うめき声ばかりではない。うめき声のあいまをぬうて、ピシッ、ピシッと、むちでなにかをぶつような、鋭いひびきがきこえてくる。  いや、いや、その鋭いひびきと同時に、絶えいるようなうめき声がきこえるのである。まるで骨もくだけるような、苦痛をしのぶうめき声が……。  お紋はゾーッと全身に鳥膚が立つような恐怖をおぼえたが、とともに、腹の底からむらむらとこみあげてくる怒りをおぼえた。  食いしばった歯のあいだから、もれるようなうめき声は、男とも女ともわからない。お紋はてっきり、それをお歌だと思った。あの、どうかするとゾーッとつめたい風に吹かれるようなくらい影をもつ男が、お歌を打っているのだ。打擲《ちょうちゃく》しているのだ。  お紋は腹のそこが煮えたぎるような怒りをおぼえたが、そこは年寄りのふんべつである。足音をころして、うめき声と、むちのひびきをたよりに、そっちのほうへしのんでいった。  いままで、お紋の立っていたのは、築山の背後だったらしい。その築山のうしろをまわると、そこにはひろい泉水があり、泉水のうえにせり出すように、泉殿が建っている。むろん、泉水も涸《か》れ、泉殿も軒はかたむき、雨戸も破れほうだいである。  むちのひびきとうめき声は、その泉殿のなかからもれてくるのである。いや、いや、むちのひびきやうめき声のみならず、ボーッとした灯の色が、破《や》れ廂《びさし》や、雨戸のすきまからもれている。  なるほど、そこはこの空き屋敷のいちばん奥まったところにあたり、ここなら多少あかりがもれても、ひとの気配や物音がしても、屋敷のそとまでもれる気づかいはない。  お紋はたもとでしっかり口をおさえて、泉殿から庭へおりる階《きざはし》のしたまでしのびよった。  この泉殿はわたり廊下で母屋へつながっているのだが、階でじかに庭へおりられるようにもなっている。縁側がたかく、階はかぞえてみると七段あった。むろん、わたり廊下も、縁側にめぐらせてある匂欄《こうらん》も、ボロボロに古朽ちているらしく、あたりにたちこめているのは、腐朽と退廃のにおいである。  お紋はしばらくくもの巣だらけの縁側のしたにたたずんでいたが、頭上からきこえるむちのひびきはますます鋭く、うめき声はいよいよ絶えいらんばかりである。ひとむちごとに、苦痛にのたうちまわっているらしく、頭上の床がミシミシきしった。  それをきくたびに、お紋は、じぶんの肉がやぶれ、骨のくだける思いだったが、とうとうおもいきって縁側のしたからでた。  階《きざはし》は思いのほか丈夫で、ちかごろだれかがそこをあがりおりしているらしいことは、ほこりのつもりぐあいでもわかるのである。むろん、お歌とお歌の情人《いろ》、浅井鉄馬にちがいない。  お紋は怒りと不安に胸をふるわせながら、階をあがって縁側へでた。縁側のはばは一間くらいあるが、そのうちがわに雨戸がしまっている。  しかし、雨戸とは名ばかりで、いたるところに裂けめができていて、その裂けめから、笊《ざる》から水がもれるように、なかのあかりがもれている。お紋はその裂けめのひとつに、そっと片目をおしあてた。  まず、いちばんにお紋の鼻をついたのは、ものの饐《す》えたようなにおいである。お紋はあわててたもとで鼻をおおいかくすと、内部のようすにひとみをこらした。  さいわい、なかは障子もふすまもとりはらわれて、おくのおくまで見通しである。  お紋のいまのぞいている縁側のすぐうちがわは、泉水の景色をめでる供応の間ともいうべき部屋らしく、その部屋のおくに、休息の間がある。あの鋭いむちのひびきと、のたうちまわる苦痛のうめきは、その休息の間からきこえるのである。  お紋はそのほうへひとみをこらした。  そこには十畳づりくらいの、ひろい、大きな、白麻に藍《あい》の裾濃《すそご》いの蚊帳がつってあり、さやさやと、はげしく波打っている。  おそらく、お歌が男とここで会いはじめたときは、まだ暑い季節だったので、蚊帳を必要としたのであろう。それをいまもって使っているのは、いくらか寒さしのぎになるのと、もうひとつ、なかの演技をいくらかでも、外部から遮蔽したいという配慮からではなかろうか。  その蚊帳のなかに、行灯《あんどん》がおいてあるので、薄地の蚊帳をとおして、なかのようすが、おぼろげながらもうかがわれる。  お紋はそちらのほうへひとみをすえたが、やがて目がなれてきて、蚊帳のなかでなにが演じられているかがわかってきたとき、お紋はそれこそのけぞるばかりに驚いた。あまりのおどろきに、あやうく声を立てるところを、あわててたもとで口をおさえることによってくいとめた。  ああ、なんと、むちにうたれて、のたうちまわっているのは、お歌ではなく、男のほうだった。むちをふるっているのが、お歌であった。  お紋もいったんじぶんの目をうたがって、なんどかまぶたをこすったが、目のまえに演じられている事実に、もうまちがいはなかった。  蚊帳のなかには寝床がのべてあり、まくらがふたつころがっている。その敷き布団のうえに大きなしりをたかくして、うつ伏せになっている男は、一糸もまとわぬはだかであった。ふんどしさえもしめていなかった。  うつ伏せになっているので、顔はまるでみえないが、浅黒い膚のいろといい、隆々たる筋肉の締まりぐあいといい、骨組みのたくましさといい、それはたしかに浅井鉄馬にちがいない。  そして、そのそばに中腰になって、むちをふるっているのがお歌であった。お歌はさすがにすっぱだかではなく、湯文字だけはしめていたが、はげしいうごきにひもはゆるみ、すそはみだれ、中腰に立っているお歌の下半身は、ひざからつややかな内股《うちまた》のあたりまで、露出せんばかりである。 「もっと強く……もっと強くぶってくれ」  男はお歌の決断をうながすように、はたまた女の心をそそるように、たかく持ちあげた大きなおしりを、前後左右にゆすぶっている。 「はい、だんなさま」  むちをにぎったお歌は、女にあるまじきふるまいにおよびながら、その声は甘くとろけるようである。  さっきからのはげしい運動に、鬢《びん》はほつれ、髷《まげ》はかたむき、むっちりとした双の乳房が、かたくなって大きく波立っている。  その乳房のうごめきといい、湯文字からチラチラこぼれる内股の筋肉のふるえといい、このあとで襲ってくるであろう、男の攻撃にたいする期待と渇望とで、お歌のからだはもだえ、うずき、煮えたぎっているようである。  お歌のひとみは火のように燃え、お歌の吐く息はあらしのように切迫している。 「こうでございますか。こ、こうすればよろしいのでございますか」  お歌の右手がさっとおどったかとみると、武士が馬を駆るときつかう長いしなやかな乗馬むちが、男の大きな臀部《でんぶ》にむかって、ピシャリッとはげしい音を立て、そこにサッと無残な血の筋を走らせた。血の筋はもうすでに、縦横無尽についている。 「ううう……」  という男のくるしげなうめき声は、しかし、ききようによっては一種|恍惚《こうこつ》たる陶酔境をさまよう歓喜の声ともとれるのである。 「お歌……お歌……もういちど……もういちど……」 「はい、だんなさま……」  お歌の右手が、またさっと躍ったかとおもうと、男のしりにむかってむちがふりおろされ、ピシリッと、肉も骨もくだけるような音が高鳴った。皮が裂けていたいたしく、血がほとばしったようである。  お紋はじぶんの目をうたがうとどうじに、じぶんの神経をうたがった。いまじぶんが目撃しているこの情景が、はたして事実であるかどうかと……。  お歌の父との平凡な夫婦生活しか経験のないお紋には、いま眼前に展開されている男と女のいとなみは、とうてい信じられないくらい、世にも奇怪なものであったにちがいない。  男が女にむちでぶたれる……。  しかも、そのことがこのうえもなく男に歓喜と興奮とをあたえているらしいことは、うつ伏せになった男のからだが勃然《ぼつぜん》として燃えに燃えて脈打って、いまや一触即発の状態を示していることからでも、ハッキリうかがわれるのである。  あるいは、女にこうしてむち打たれなければ、男はこのような歓喜と興奮にみちびかれず、あのような一触即発の状態にまで官能が高揚されないのかもしれない。  しかも、その歓喜と興奮は、 「だんなさま、こ、こうでございますか、こ、こ、こうすればよろしいのでございますか」  と、お歌が息をあえがせ、まなじりをけっしてくわえるひとむちごとに助長され、増大するらしいことは、あの浅黒い膚がまっ赤に燃え、あの一触触発の状態が、ますますたくましくなっていくことでもわかるのである。  男はそのむちのもとに、歓喜と苦痛の歯をくいしばり、布団のうえをのたうちまわっていたが、 「お歌、もうよい、かたじけない。それじゃ……それじゃ、こんどはおれを抱いて……おれを抱いて、思うぞんぶんいじめておくれ」  うわごとのようにつぶやくと、男はよろよろ起きなおり、まるで乳児が母親の乳房にすがりつくように、お歌の胸の谷間に顔をうずめた。  はげしい打擲《ちょうちゃく》のもとに髻《もとどり》は切れ、さんばら髪が肩にみだれているが、それでいて、その顔は、朱をそそいだように燃えている。 「だんなさま……! だんなさま!」  お歌の官能も沸騰点に達していた。たくましい男のからだを抱きしめると、みずから仰向きに身をたおし、湯文字のまえをさばいて、みずからの手で男のからだを迎えいれた……。  この奇怪な男と女の愛欲変相図を、お紋はもうそれいじょう見ているにたえられなかった。しかも、女のほうは、げんざいじぶんが腹をいためた娘である。  男の大きなしりが、じぶんの娘のうえに折り重なり、娘のあらわな腕《かいな》がしっかりと男のふとい首にまきつくところまで見とどけて、そっと雨戸をはなれたとき、お紋の顔色は、まるで幽霊にでも会ったもののように青ざめていた。足音をしのばせて、七段の階《きざはし》をおりるとき、お紋のひざがしらは、あらしにあった木の葉のように、わなわなとふるえてやまなかった。  お紋がやっと階のしたまでおりたとき、頭上の床をものくるおしくきしらせて、お歌の絶えいるような歓喜の声がきこえてきた。  守り袋   ——おせんの父はわからずじまい  お歌がかえってきたのは、その翌日の明け方ちかくのことだった。あれからあとなんどああいう情景がくりかえされたのかしらないが、かえってきたお歌はふ抜けもどうよう、まるで骨を抜かれたようにぐったりしていた。  お紋は泣いてかきくどいた。ゆうべ尾行したこともうちあけた。さすがに屋敷のなかまで踏みこんで、あのあさましいいちぶしじゅうを目撃したことまでうちあけるのはひかえたが、折り助からきいたあの空き屋敷のおそろしい因縁話もはなしてきかせた。そんなおそろしいところへ、わかい娘を誘いこむ男を、悪魔のようにののしった。  しかし、お歌は平然として、 「おっかさん、あのお屋敷の話なら、わたしもよくしっています。いつかあのかたから伺いました」 「まあ!」  と、お紋もあきれて、 「それをしっていて、よく、まあ、あんなおそろしいところへいけるもんだ」 「だって、そのほうが、じゃまがはいらなくていいと、あのかたはおっしゃるんです。おっかさん、なにも心配することはないのよ。あのかたはべつに、伊織様にも奥方様にも、関係のあるかたじゃないのですから」  お歌はそのごもたびたび、あのおそろしい空き屋敷へ出かけるらしく、そのたびに、母のお紋はひとりやきもきしていたが、すると、ある日、目を真っ赤に泣きはらしてかえってきたお歌が、いきなり、母のまえに泣きくずれた。  お歌がびっくりしていると、お歌はさんざん泣いたのち、やっと、これだけのことをいった。 「おっかさん、ごめんなさい。でも、もういいの。なにもかもすんでしまったの。あのかたとの仲も、ゆうべ限りになってしまった。おっかさん、あたしはじめてあのかたのご身分やお名前をうかがったの。あのかたは……」  お歌はおそろしそうに身をふるわせて、 「でも、そのことは、いわないほうがいいわ。おっかさんを怖がらせるばかりだもの。それに、あのかたとあたしはかたき同士。おっかさん、これをみてください」  そういいながら、お歌がとりだしたのは、十両の金包みのほかに、守り袋がひとつ。お紋はその守り袋をみて肝をつぶした。それもそのはず、その守り袋こそ、この年月さがし求めているお歌の兄の卯之助《うのすけ》が、肌身離さず持っていたものだった。 「ほほう、それじゃお歌さんは、兄さんのいどころをしっていたのか」  そこまできいて、佐七はおもわずひざを乗りだした。 「そうらしゅうございます。しかし、どんなに尋ねてもいおうとはせず、ただ、この十両は、兄さんからおっかさんへといって、ことづけてきたものだと、そういって泣くばかりで……」  また、鉄馬と名乗っていた男の身分姓名についても、お歌は口をわらなかった。  お紋はなんとなく気にかかったが、しかし、それいらい、男のことをあきらめてしまった娘のようすに、お紋もいくらか安心していたが、 「親分さん、それがなんという因果なことでございましょう。お歌はそのとき、男のタネを宿しておりましたので……」  お歌はそれに気がつくと、気が狂ったようになげき悲しみ、いくどか、井戸へ身投げしようとした。しかし、さいわい、お歌の自害は、いつもとめるものがあって意をはたさず、やがて、月満ちてうまれたのがおせんだった。  このときも、お歌は気が狂ったようになって、頭にさした銀かんざしで、おせんののどをつこうとした。 「わたしがあわててとめましたので、おせんはあやうく助かりましたが、そのとき、あごにうけたのが、三日月がたの傷でございます」  なるほど、おせんのあごの傷には、そういう由来があったのか。  それいらい、お歌の手から、おせんを取りあげてしまったが、すると、とうとう、ある日、お歌は井戸へ身を投げて、死んでしまったのである。 「なるほど。それじゃ、おせんちゃんのおとっつぁんというのは、わからずじまいか」 「はい、お歌はなんにもいわずに死にましたし、男の姿はそれきり見えませんでしたので」  なるほど、聞けばきくほど哀れなのはおせんだ。どういう子細があるのかしらないが、うまれたときから母親に、その出生をのろわれていたのである。 「しかし、おっかさん、この割り笄《こうがい》はどうしたのだ」 「それでございます。お歌が男とわかれるとき、たがいにかたみにと、お歌の笄をふたつに割り、それをひとつずつ身につけているように、約束したのだそうでございます。それですから、この笄を持っているものこそおせんの父、お歌を殺したのは、とりもなおさずその男。そして、いままたおせんの葬式料にと、大枚の金子をよこしたところをみると、おせんを殺したのも、きっと、その男にちがいございません」  お紋は身をふるわせて泣くのである。  無気味な客   ——その客が来るとゾーッとして 「親分、なんだか妙な話じゃありませんか。お歌の情人《いろ》てえな、いったい何者でしょう」 「そいつア、きっと卯之助を殺しよったにちがいおまへんで。お歌はおふくろに、あのひととわたしは、かたき同士といったちゅうやおまへんか」 「そうだ、そうだ、卯之助を殺して金をうばったとき、守り袋も手にいれたんだ。それでわけがわかったもんだから、添うにそわれぬかたきどうしてなわけでわかれたが、そのとき、お歌は因果のタネを宿していた。おせんはつまり伯父のかたきのタネだというので、お歌は殺そうとしたんです」 「ふむ、そんなことかもしれねえな」  佐七はふかい考えにしずんでいたが、 「しかし、それは十七、八年もむかしの話だ。いま、こちとらに用があるのは、おせん殺しの下手人だ。とにかく、おせんの出ていた矢場というのへ、いってみようじゃねえか」  おせんの出ていた矢場は、当たり屋といって八幡前にある。三人がやってくると、当たり屋はいっぱいの客だった。おせんの殺された話をきいて、野次馬が押しかけているのである。  当たり屋にはお兼といって、おせんとは比べものにはならないが、ちょっと渋皮のむけたのがいて、客のあいてになっている。 「ほんにわたしも驚きました。おせんさんがあんなことになろうとは……」 「これも、あんまり男を迷わせたからさ。なあ、お兼、こうなったらかくすことはねえ。いったい、おせんの情人《いろ》とはどんなやつだ」  佐七はそれをきくと、辰と豆六に目くばせして、矢場のそとに立ちどまった。 「だから、そんなものはありません、といってるじゃありませんか。おせんちゃんはとても堅いひとだったし、それにお紋さんがねえ」 「そんなことわかるもんか。それじゃいつも遊びにくる銀次というすごみな兄いはどうなんだ」 「銀ちゃんはただ、幼なじみというだけさ。銀ちゃんのほうじゃおせんちゃんを思っていたかもしれないけれど……」 「ふうん、それじゃおせんちゃんにゃ、ほんとに男はなかったのかい」 「そうさねえ。おせんちゃんの思われびとといえば、まあ、豊麿《とよまろ》師匠くらいのもんかね」 「豊麿というのは、あの浮世絵の……」 「そうですよ。おせんちゃんが売り出したのも、師匠が一枚絵にかいてからのこと。おせんちゃんはそれを徳として、師匠にだけは気を許してましたね。だけど、それは色恋のさたじゃありませんよ。師匠は五十を出てるんですからね」  お兼ははぐらかすように笑ったが、やがて、ふっと真顔になって、 「だけどね、ここに、ひとつだけ、ふしぎな話があるんです」 「ふしぎな話って、どんなことだい」 「いえ、べつになんでもない話かもしれないんですけれど……」  お兼の話によるとこうである。いまから半月ほどまえのことである。この当たり屋へ、はじめての客がやってきた。それは三十五、六のいい男のお武家だったが、どこかゾッとするような、気味のわるい人物だった。 「いえ、べつにどうのこうのというんじゃないんですが、そのひとがくると、寒気がするような気がするんです」  その侍はべつに弓をひくでもなく、ただ、渋茶をのんでかえっていった。  ところが、それから二、三日すると、またやってきた。  そのときも、ただおだやかに話をするだけだったが、お兼はすぐにその客のお目当てがおせんであることをさとった。  そこで、客がかえったあとで、そのことをいうと、おせんはまゆをくもらせて、 「お兼さん、後生だからそんなこといわないで。あたしゃあのひとがくると、なんだか怖くて、怖くて……」  ふしぎなことには、おせんもお兼とおなじ印象を抱いているのだ。  ところが、それから三日ほどして、使いのものがおせんのところへ、手紙を持ってやってきた。おせんはそれを読むと、真っ青になったが、お兼にわけをきかれると、あわてて手紙を破ってしまった。そして、その日いちにちそわそわしていたが、夕方になると、 「お兼さん、わたし、いかねばならぬところがありますから、きょうは早引けにしてください」  と、そういうのである。お兼が、さっきの手紙のことを思い出してからかうと、 「いいえ、そんな浮いた話ではありません。でもお兼さん、おばあさんがきても、さっきの手紙のことはいわないでください」  と、そういうおせんの顔色には、好きな男に会いにいく、うきうきしたところはみじんもなかった。  それいらい、おせんはちょくちょく早引けをしたが、どこへいくともついぞ語らず、また、お兼も約束を守って、いっさい内緒にしていたので、お紋はいまだに、このことは知らないはずである。  お兼はそういったのち、 「わたしにはその手紙が、あの気味のわるいお侍からきたんじゃないかと思われるんです。といって、それじゃおせんちゃんに情人《いろ》ができたかときかれると、打ち消さずにゃいられません。こうしていっしょに暮らしていれば、どんなにかくしたって、男ができればわかります。あのお侍には、なにか、ふかい子細があるんでしょう。ほんに、思い出してもゾーッとする……」  その話をきいて、おどろいたのは佐七である。  さっききいたお紋の話によると、お歌のあいても、ゾーッと寒気のするような、気味のわるい侍だったという。そして、いままたおせんのあいても……。  むろん、それがおなじ人間であるはずはない。  お歌のあいては、いまから二十年以前に三十五、六の年ごろだった。そして、おせんのあいてもやっぱり三十五、六。十八年のあいだをへだてて、母と娘をおなじように怖がらせ、おなじようにひきつけていくふしぎな人物。  佐七はまるで、草双紙のあやかしでも読んだような気持ちだった。  幼友達   ——敵《かたき》のところへ切りこむつもりで  それからまもなく、三人がやってきたのは駿河台。 「おい、辰、豆六」 「へえ、へえ」 「このきんぺんに、化け物屋敷とひょうばんのたかい空き屋敷があるはずだが、それをどっかできいてきてくれ。二十数年まえに殿様が奥方を殺して狂死したという因縁つきの化け物屋敷」 「親分、それじゃ、お歌があいびきしていた空き屋敷が、いまだにあるとおっしゃるんで」 「なんでもいいから、はやく聞いてこい」 「おっと、がてんだ。豆六、こい」  こういうときには、調法なふたりで、すぐにかえってくると、 「親分、わかりました。すぐこのさきです」  と、やってきた屋敷というのが、なるほどすごい。  十八年以前において、すでに化け物屋敷の面影をそなえていたその屋敷は、いまではまったく立ちぐされ、風が吹いたら倒れそうだ。  軒にはおびただしい蚊柱が立っている。 「とにかく、なかへはいってみよう」 「だって、親分、十八年もまえのあいびきのあいての証拠が、いままで残っているもんですか」 「なんでもいいから、ついてこい」  佐七はさきに立って、玄関までやってきたが、なにやらみつけて拾いあげた。 「それ、みろ、辰、豆六」 「親分、なんです。そりゃ爪楊枝《つまようじ》じゃありませんか」 「そうよ、しかし、爪楊枝は爪楊枝でも、こりゃただの爪楊枝じゃねえ。ほら、ここにおせんと書いてある」 「あっ、それじゃ、これはおせんが、名披露目《なひろめ》にだす爪楊枝……」 「そうよ、それがここに落ちてるからにゃ、おせんに関係のあるやつが、ちかごろここへやってきたにちがいねえ。とにかく、はいってみよう」  なかはかび臭い薄暗がり。佐七は用意のふところぢょうちんに灯をいれると、間ごと間ごとを調べてまわったが、いちばんおくの離れ座敷まで来たときである。  三人はおもわずぎょっと立ちすくんだ。畳のうえにべっとりと、おびたたしい血の跡がついているのである。 「お、親分、ほんなら、おせんはゆうべ、ここで殺されよったんだっか」 「しっ、おい、静かにしろ、だれかきた」  佐七はふっと、ふところぢょうちんを吹き消したが、なるほど、そのことばにあやまりはなかった。みしり、みしりと畳をふむ音、たしかにだれかやってくるのだ。  三人はすばやくものかげに身をかくしたが、それともしらず、そっと座敷へはいってきたあやしの影が、あたりのようすを見まわしながら、 「おせん……おせん」  と、そういう声は涙にくもっている。 「おせん、ゆうべはとうとう、約束を果たすことができなかった。堪忍してくんねえ。おまえの死骸をかついで、おまえの敵のところへ暴れこんでやろうと思ったのだが、お茶の水の崖上でいやなやつに出会ったばかりに、おまえの死骸もとられてしまった。しかし、こんやはきっと切りこんでやる。おまえの敵はきっと討ってやるぜ」  奇怪な男はそうつぶやいて、また、はげしく泣いていたが、ふいに、のけぞるばかりに驚いた。 「ああ、そうか。ゆうべおせんの死体を葛籠《つづら》につめ、お茶の水までかつぎ出したのはおまえだったのか」  くらやみのなかから、ふいに佐七が声をかけたからである。  あやしの男は、身をひるがえして逃げようとしたが、辰や豆六がうしろにまわっているのに気がつくと、あきらめたように肩をおとして、 「ああ、おどろいた。親分、おどかしちゃいけません。あっしゃまたあいつがやってきたのかと、肝を冷やしました」 「あいつとはだれだ。それより、おまえは何者だ」 「あっしゃ銀次というケチな野郎でございます。おせんとはおさななじみで」  佐七は辰や豆六と顔見合わせた。  当たり屋のお兼の話によると、おせんのおさななじみの銀ちゃんというのが、おせんにほれて、かよっていたという。 「なるほど、それじゃ、おまえがおせんを葛籠につめて担ぎだしたのは、下手人のところへ切りこむつもりだったんだな」 「へえ、そうなんで。親分、きいてください」  銀次の話によるとこうである。  おせんにほれていた銀次は、恋するものの敏感さで、ちかごろおせんがときどき早引けすることに気がついた。  そこで、ある日、こっそりおせんを尾行して、つきとめたのがこの屋敷。  おせんがここで侍と密会していることをしると、こんどはその男を尾行して、素性を調べた。そして、ゆうべも、おせんが早引けしていることをしると、嫉妬にたえかね、ここへきてみると……。 「おせんはむごたらしゅう殺されております。これはてっきりあの侍のしわざにちがいねえと、葛籠につめて担ぎだしたんです」 「なるほど。ところで、その若侍とは何者だ」 「親分、それがおそろしいやつで」 「おそろしいやつとは……」 「あいつは、人を切るのが商売の、首切り赤右衛門でございます」  ときいて、三人はあっとおどろいた。  わかった。わかった。  おせんやお兼、お歌や、お紋が、えたいのしれぬ、うすら寒さをかんじたというのも、それでこそ納得がいく。首切り赤右衛門とは、代々、据《す》え物《もの》切りを業としているものである。据え物切りとは、諸侯や旗本の依頼によって、刀の切れ味を、罪人によってためすのが職務なのだ。  山名赤右衛門が人を切るのは、悪事ではない。しかし、人を切るのが商売であってみれば、えたいのしれぬ鬼気が身にしみこんでいるのもむりはない。  また、試し切りの夜などは、とかく夢見がわるかろう。そして、そういう、ひとに忌みきらわれる商売ゆえに、赤右衛門はお歌にたいして、身分をかくしていたのだろう。  また、そういう罪悪感が赤右衛門を駆って、女にむち打たれなければ、ほんとの満足をえられない性の倒錯者にしたてたのか。それとも、そういう家柄にうまれながら、生来の倒錯者だったのか。いずれにしても、十八年まえ、この空き屋敷の奥座敷で、すっぱだかで、お歌にむち打たれていたのは、先代、山名赤右衛門にちがいない。  佐七もよくしっているが、先代の赤右衛門は、いま、刀影斎と号して五十三、四、お歌の恋人、おせんの父とはこの刀影斎だろう。  かれは終生めとらず、赤右衛門の名称は高弟がついでいる。現在の赤右衛門は三十五、六、おせんとここで密会していたのはそれにちがいない。 「よし、わかった。銀次、この一件はおれにまかせておけ。赤右衛門がおせんを殺したのならば、きっとおれの手で敵はうってやる。おまえはだまって見物していろ」 「へえ、それじゃ、なにぶんにもよろしくお願い申します」  銀次はおとなしく頭をさげた。  赤右衛門父子   ——わたしの肝を十両で買って下さい  佐七はすぐその足で、本郷にある赤右衛門の屋敷をおとずれた。岡っ引きと首切り役人、まんざらしらぬ仲でもないので、名をつうずると、すぐ奥の間へ案内されて、出てきたのは現在の赤右衛門。なるほどいい男だが、うち沈んだ顔色に、どこか常人とちがったところがある。 「佐七、なにか用か」 「へえ。じつは、親だんなにお目にかかりたいと思って、まいりましたが……」 「父上はちかごろ、とかく健康がすぐれたまわず、奥にふせっておられるが、どのような用件か、拙者から取りついでもよい」 「へえ、それが、親だんなのおとしダネ、おせんちゃんのことなんですがね」 「なに!」  それをきくと、赤右衛門の顔色がさっとかわった。一瞬、殺気ともみえるものが、あおじろい面上をかすめたが、そのときだった。 「せがれ、ひかえい」  ふすまのむこうで声がして、やがてあらわれたのは、先代赤右衛門の刀影斎。しかし、そのようすには、昔日の面影はさらになく、よろよろと刀をつえに歩むすがたには、死相を思わせるものがあった。 「病中とて、むさくるしい体じゃが、佐七、まあ、ゆるしてくれ」  刀影斎は座につくと、 「ところで、いまあれで聞けば、おせんのことについてやってきたとか」 「へえ、さようで。おせんちゃんを殺したのは、赤右衛門さんにちがいないと、いきまいているやつがございますんで。それで、こうしてたしかめにまいりましたので……」 「それはご苦労じゃった。しかし、佐七、おせんを殺したのはわしではない。また、せがれ、赤右衛門でもない」 「すると、だれが……」 「それはしらぬ。わしもそれをしりたいと思うている」  刀影斎の語るところによると、こうである。  お歌と別れていらい、刀影斎はついにめとらず、弟子をもって養子としたが、一日として忘れることのできないのがおせんのこと。  いちど会いたい、会って親子の名乗りをしたいと、そういう願いは年とともにつよくなったが、ことに、ちかごろ、病床に伏し、ふたたび立てぬからだと覚悟をきめると、矢もたてもたまらなくなって、ついにむかしの秘密を、養子、赤右衛門に打ちあけたのである。  おどろいたのは赤右衛門。  養父の胸中を察すると、捨ててはおけない。といって、あいてはわかい娘。父は首切り赤右衛門といきなり聞かされたら、どのように恐れるかもしれぬ、そこで、おいおいいって聞かせるつもりで、あの空き屋敷へ招きよせたのである。 「昨夜もおせんどのと約束ができておりましたので、出向いていくと、おせん殿は殺されている。わたしは驚いて、いったん屋敷にたちもどると、父上にその話をいたしました。それからふたたび、なきがらを引き取りにまいりましたが、そのときには影も形もなく……」  しかし、けさのひょうばんで、おせんの殺されたのがまちがいのない事実とわかったので、刀影斎が十両の弔い料をおくったのである。 「なるほど、それで万事わかりました。しかし、親だんなにもうひとつお尋ねしたいことがございます」 「どういうことかな」 「いかに商売が商売とはいえ、お歌さんはあなたにほれていたというのに、どうしていっしょになってやらなかったんでございます」 「佐七、その不信はもっともながら、お歌とわたしはかたき同士……」  と、刀影斎が悲痛な声をふりしぼって語ったところによるとこうである。  あるとき、刀影斎は将軍の御佩刀《おはかせ》の、試しぎりを仰せつけられた。どの刀を試すときでもそうだが、将軍の佩刀《はいとう》とあれば、いっそう慎重を期さねばならぬ、切られる罪人も、体のきれいなわかい男がえらばれる。その選にあたったのが、伊之助《いのすけ》という若者だった。  さて、いよいよ試し切りというだんになって、伊之助を土壇場にひきすえると、伊之助がこんなことをいった。  じぶんは、悪事の数をかさねてきたのだから、ここで切られてもしかたがない。しかし、じぶんには、年おいた母とひとりの妹がある。いままでふたりにさんざん苦労をかけてきたから、せめて死後、なにかのこしてやりたい。きけば、首切り赤右衛門というものは、試し切りにした罪人の肝を金にかえるとか。なんと、じぶんの肝を十両で買ってくれないか……。  赤右衛門も、それをきくと、あいての度胸のよいのに感服した。そこで、願いをきいてやると、伊之助は膚にかけた守り袋を差しだして、 「このなかに、おふくろと、妹の名が書いてございます。どうぞこれをたよりに、肝代をふたりにとどけてやってくださいまし」  そういって、伊之助は、悪びれるところもなく、赤右衛門の刃《やいば》にかかって往生したが……。 「あとになって、守り袋をひらいたときのわしの驚き、佐七、察してくれ」  その伊之助こそは、お歌のたずねる兄卯之助だった。赤右衛門は、二世をちぎった女の兄を、それとはしらず、手にかけたのである。  佐七もそれをきくと、しばらくぼうぜんとして目をみはっていたが、 「なるほど、それでなにもかもわかりました。ところで、おせんさんを殺した下手人ですが、なにか心当たりはございませんか」 「ない、見当もつかぬ」  これには佐七も困ったように考えこんでいたが、やがてひざをすすめると、 「それはそれとしておいて、あなたとお歌さんの仲ですがね、だれもしっているものはなかったのですかえ」 「そう、だれもしっているものはなかったはずだが……」  刀影斎はしばらく小首をかしげていたが、思い出したようにひざをたたくと、 「そういえば、ここにひとり、わしとお歌の仲をしっていたものがある。あれはたしか、お歌が井戸へ身投げして、亡くなってからのことであった。ひとりの男が、気ちがいのように、この屋敷へ怒鳴りこんでまいった。お歌を殺したのは、とりもなおさず赤右衛門じゃ。人切りのぶんざいで女をだましたゆえ、お歌はそれを悲しんで、身投げしたのだなどと、口をきわめてののしっていったが……」 「してして、それはどういう男で……」 「されば、お歌を一枚絵にかいた浮世絵師の春川|豊麿《とよまろ》……」 「南無三《なむさん》……」  佐七はそれを聞くと、はや、すっくと立ちあがっていた。  ここまでくると、もう、下手人がわかったも同然である。  それからまもなく、辰と豆六を引きつれた人形佐七が、とるものもとりあえず、亀井戸《かめいど》にある豊麿の家へかけつけると、ひと足ちがいで、豊麿は梁《うつばり》に帯をひっかけて、くびれて死んだあとだった。  豊麿はなんの遺書も残さなかったので、自殺の動機はだれにもわからなかったが、佐七だけがしっていた。  豊麿は、そのむかし、お歌にほれていたのだろう。そして、ほれた女を一枚絵にかくことによって、人気を引き立ててやったのだ。  しかし、そのお歌には赤右衛門という男ができて、そのために、とうとう自殺をしてしまった。そして、あとに残されたのがおせんである。  豊麿は、おせんの成長を、じっととおくから見まもっていたことだろう。そのおせんは、はたして母に似た美人となった。豊麿のお歌によせた思慕の情は、その娘にたいして、はげしく燃えあがったのだ。  だが、そのおせんにも、ちかごろ男ができたらしい。しかも、その男というのが、のろうべき赤右衛門の養子、げんざいの赤右衛門である。おまけに、ふたりはそのむかし、お歌が情人と忍び会うていたところで会っているのだ。  そうかんづくと、豊麿は嫉妬のために気が狂った。年がいもなく、思案も分別もうしなってしまった。  あの夜、豊麿は空き屋敷で、おせんを待ち伏せすると、はじめて、おのれの恋を打ちあけて、おせんに迫った。そして、おせんに拒絶されると、かわいさあまって憎さが百倍とばかりに、とうとう殺してしまったのである。 「思えば、豊麿もかわいそうなやつよ。母と娘と二代にわたる恋のために、とうとう、その身をほろぼしてしまったのだ」  豊麿の死体をよこにおいて、佐七は暗然としてつぶやいた。それから、辰と豆六のほうを振りかえると、 「それにしても、おせんを殺した短刀に、おせんの一枚絵が突きさしてあるのをみたとき、おれアすぐに豊麿が怪しいと気がつかなきゃならなかったんだ」 「親分、そりゃまたどうして?」 「親分、あの一枚絵は、なんであんなとこに突きさしてありましてん」 「そりゃおそらくこうだろうよ。おせんをくどくとき、豊麿はあの一枚絵を出してみせたんだ。おまえが江戸の人気者になったのも、もとはといえば、おれがこうして一枚絵をかいてやったからだと、つまり、それを恩にきせてくどいたんだな。それでもおせんがいうことをきかねえもんだから、うんといわなきゃアこのとおりだと、ぶすりと短刀で錦絵《にしきえ》をつらぬいたんだ。おせんは、しかし、それでも頭をたてに振らなかった。そこで豊麿は狂気のごとく、一枚絵を突きさしたまんま、短刀でぐさりとおせんの胸をえぐったのよ」 「な、な、なあるほど」  辰と豆六にも、はじめてあの一枚絵のなぞが解けたのである。  お紋はそののち佐七から、はじめておせんの父の名を聞かされた。お紋にとっては刀影斎は、二重にも三重にものろわしい人物だったが、会って話をすると心もとけた。  それからまもなく、お紋は刀影斎のもとに引きとられたという。     狸《たぬき》ばやし  たぬきの眷属《けんぞく》   ——それじゃわたしがたぬきですかえ  江戸が東京とあらたまってから、すがたを消したものはいろいろあるが、たぬき、かわうそ、かっぱのおうわさなどもそのひとつで、文明開化の風とともに、狐狸《こり》妖怪のたぐいはおいおいひっそくして、いまではたぬきがばけるなどいおうものなら、子どもにさえバカにされてしまう。  これからみると、そのころの大人は、いまの子どもよりもたわいがなかったわけで、たぬきも大いばりでたぬきばやしなど演奏して、さかんに人間|愚弄《ぐろう》の挙にでたものだが、ここに駒込《こまごめ》のおくふかく、傾城《けいせい》ガ窪《くぼ》かいわいで、ちかごろ夜ごと、たぬきばやしがきこえるという評判が立ったのは、武蔵野におく露の、ようやく秋めいてきたころである。 「どうです、ことしのたぬきの浮かれかたは? 夏のおわりから、降っても照っても休みなしというのだから驚きますな。ほんに、のみのおおい年は水が出るというが、たぬきの浮かれる年はどうなりましょう」 「さあて、たぬきが浮かれるから豊年じゃという話はまだきかぬな」  と、こんな話が持ちあがったのは、ちかごろ板橋街道のほとりへうつってきた常磐津《ときわず》の女師匠文字常という女のけいこ場だった。  この文字常というのは、小股《こまた》のきれあがった江戸者で、もとは下谷へんで弟子をとっていたということだが、どういうわけか、ふた月ほどまえから、この草深い板橋へうつってきて馬糞《ばふん》くさい兄いたちをあいてに、常磐津の師匠をはじめたのである。  今宵《こよい》は中秋月見の晩で、縁側には女主人のたしなみで、すすきが清らげにそよいでいる。 「それにしても、あれゃアいったいどこでやっているんだろ。わたしゃてっきり、聖天様《しょうてんさま》のお屋敷跡だと思うんだが」  と、そういったのは、つい近所の経師屋の息子で鶴次郎《つるじろう》という、色の生っちろいにやけた若者で、天下の色男はわたしでございといったような顔をしている。きざったらない。 「さようさ、まず鶴さんのおっしゃる見当だが、どうもハッキリしない。ここだと思ってちかづくと、またすうっと遠くなるという話さね」  パチパチ扇子を鳴らしながら、そう応じたのは、俳諧師《はいかいし》の千蝶《せんちょう》という人物。かれももとは江戸者だが、流れながれていまではこのへんで、土臭い百姓相手に俳諧の点者をやっている。 「なに、それがたぬきばやしのたぬきばやしたるゆえんさね」  さっきから、縁側の柱にもたれて、つまらなそうにつまびきをしていたのは、谷屋|与右衛門《よえもん》という浪人者、三味線をプイとその場に投げだすと、 「いずれにしても、聖天の屋敷跡か隆光寺の池、あるいは、久左衛門殿のお宅の付近とおもわれる。久左衛門殿、そなたはどうおもわれるな」 「さあて、みなさんそうおっしゃるが、わしにはとんとわからない」  と、大きな手のひらで顔をなでたのは、このかいわいでも豪農のうわさのたかい久左衛門という人物。年は五十ぢかいが、脂ぎっただんなぶりだった。 「わしはわしで、寝ていてきくと、ずっと遠くできこえるようにおもうのだが……棟梁《とうりょう》、おまえさんはどう思う?」 「さあ、わたしにはとんとわかりません」  と、すみのほうからおだやかにこうこたえたのは、秀五郎《ひでごろう》といって大工の棟梁、この五人がこよいの文字常の客だった。  きょうは月夜のためか、ひとしお浮かれるたぬきばやしを遠くちかくききながら、五人のあいだにはひとしきり話に花がさいていたが、そこへすうっと障子をひらいて、 「お待ちどうさま、こんやはねえやがいないものだから、なにもお愛想ができなくなって」  と、はいってきたのは女あるじの文字常だった。  なるほど、掃きだめへつるがおりたようだと、ちかごろ街道筋にうわさのたかいのもむりではない。おしろい気のないのが、いっそ色っぽく、目もとにたまらないあいきょうがある。  文字常は秀五郎のそばにあでやかに座ると、うちわをとってのこりの蚊をおいながら、 「たいそうおにぎやかですが、みなさん、なんの話でございましたの」 「なんの話って、おまえの眷属《けんぞく》のうわさ話さ」 「あたしの眷属?」 「そうさ、たぬきばやしのうわさだもの」 「あれまあ!」  と、文字常はうつくしい目で鶴次郎をにらみながら、 「あんなひどいことをおっしゃる。それじゃあたしがたぬきですかえ」 「そうさ、おまえのようなうつくしい女が、こんな草深い田舎へくるとは、どうでもなにかいわくがあるにちがいない。だから、たぬきばやしの眷属だろうということになったのさ」  鶴次郎はべつに深い意味があっていったのではなかったろうが、そのとたん、文字常がなぜかふうと顔色をくもらせたのを、横目でジロリとみていたのは、浪人者の谷屋与右衛門、いや、なんとなく気になる目付きだ。  ばかされ伊十《いじゅう》   ——地蔵さんにむかってペコペコと  文字常はしかしすぐ気を取りなおして、 「ほっほっほ、鶴さんのお口のわるい。どうせわたしはたぬきですよ。でも、そのたぬきがかわいいといってくれるおひともあります。ねえ、棟梁」  と、秀五郎にしなだれかかったから、さあ色男の鶴次郎はおさまらない。 「おやおや、牛は牛づれというが、やっぱりたぬきはたぬきづれかい」  目に角たてたそのことばにも、冗談とはおもえない針があったから、文字常もひらきなおった。 「あれ、たぬきはたぬきづれ? それじゃ棟梁もたぬきだとおっしゃるのですかえ」 「そうよ、おまえは新入りだからしるめえが、今戸焼きのたぬきときいてみねえ。このかいわいじゃしらぬものはねえ。ヘン、あのつらで女師匠をはりにくるんだから気が強い。ほれりゃあばたもえくぼに見えるというが、あれじゃ顔中えくぼだらけで化け物だ」  毒をふくんだ鶴次郎のことばに、秀五郎の顔色がさっとかわった。  秀五郎もじぶんの醜いことはよく知っている。色が黒くて、おおあばたで、女にほれたはれたのという柄でないことをしっている。だからこそ、三十五というこの年まで、男やもめで暮らしてきたのだ。  ほかのものが女狂いをするあいだに、ひたすら仕事に精を出してきたのだ。そのおかげには、出入りのだんな衆からかわいがられて、いまではりっぱな棟梁と立てられている。  顔がまずいとて、あばたがあるとて、だれひとりあげつらうものはない。それだのに、それだのに……。 「ま、まあ、待ちなさい。鶴さん、おまえどうしたもんだ。師匠のうちへきてけんかをうる気か。棟梁、ま、まあ、我慢しなさい。あっし……いや、あっしじゃいけない、師匠にめんじてがまんしなさい」  俳諧師の千蝶はやっきとなって、 「さあさ、つまらないけんかはよしたあっと。それより、なにかおもしろい話をしようじゃないか」 「宗匠、さっきの話のつづきをききたいな」  と、そのとき、おだやかに横から口を出したのは、浪人者の谷屋与右衛門。 「はて、さっきの話のつづきというと?」 「おまえも忘れっぽいな。ほら、だれかがたぬき退治に出向いたという話よ」 「おっと、そのこと、そのこと」  と、千蝶はわたりに舟とひざをのりだして、 「こうっと、ありゃどこまで話したっけな。ええ、めんどう臭い、はじめから話してしまえ。ありゃいまから十日ほどまえのことですよ。ほら、このむこうに野鍛冶《のかじ》がありましょう? あそこでやっぱり、今夜のように、おおぜいよって、たぬきばやしのうわさに花がさいていたんです。そのうちに、どんなきっかけからか、親方の伊十《いじゅう》というのが、おれが正体見あらわしてくれるというわけで、ひとりで出かけていったとおもいなさい。ところが、それがいつまでたってもかえってこない。のこったものもだんだん心配になってきて、みんなして親方を探しにいったんです。すると、あなた、隆光寺のうらのあの大池、あそこにお地蔵さんが立っていますね。そのお地蔵さんにむかって、伊十のやつめ、しきりにペコペコお辞儀をしているんです。しかも、そのなりというのがいいじゃアありませんか。ふんどしひとつのあかはだか、おまけに馬のわらじかなんか頭にのっけている。いや、もう大笑いで。それいらいというもの、伊十のやつ、表をあるくたびに、ばかされ伊十とうしろ指をさされるもんだから、面目ながってちかごろじゃ一歩も外へ出ないんです。いや、じぶんが出ないだけじゃない。親ひとり子ひとりで、お光《みつ》といってことし十三になる女の子があるんですが、これもけっして外へ出さない。むかしから飛び切り子煩悩《こぼんのう》な男だったそうですが、たぬきが娘をとりにくるとでも思ってるんだろうと、いや、ちかごろ大笑いなんですよ」  千蝶の話をきいているうちに、文字常もひざをのりだして、 「お光つぁんならあたしもしっているが、ほんに利口な子どもですよ。それにしてもくやしいじゃありませんか。そんなにくらしいたぬきを、だれも退治にいくひとはないんでしょうか。鶴さん、おまえさんどう、ひとつ、たぬき退治にでも出かけたら。それとも、ばかされるのがおそろしい?」  文字常のことばのどこやらに鋭いとげがあったから、鶴次郎もさっと青白んで、 「ふん、それゃたぬき退治に出かけてもいいが、ひとりじゃまっぴらご免だ」 「ひとりじゃ怖くって?」 「そうじゃねえが、みんながここでぬくぬくとタバコなんか吸っているのに、ひとりで出かけるバカはねえ。そうだ、これからひとつみんなで出かけようじゃないか」 「わしはまあ、ご免こうむろう」  久左衛門はおだやかにことわった。 「あっしもご免だね。馬のわらじをのっけられるのは、あんまりぞっとしませんからね」  俳諧師の千蝶もしりごみする。 「ちょっ、意気地のねえ。おい、棟梁、おまえはいやというまいね。どうで親類筋じゃないか。はっはっは。それから、先生、おまえさんも二本さしていなさるんだ。まさかしりごみはなさるまい」  と、妙なはめから、それからまもなく、鶴次郎、与右衛門、秀五郎の三人が、たぬきばやし探検ということにあいなった。  浮かぶ鶴次郎   ——のど仏にぐさりとなにやら突き立て  綱がたって綱がうわさの雨夜かなで、三人の渡辺《わたなべ》の綱が、羅生門《らしょうもん》の鬼退治ならぬ、たぬき退治に出かけたあとでは、四天王ならぬ文字常に久左衛門に千蝶の三人が、しばらく今様三人綱のうわさをしていたが、そのうちに文字常がつと立って、 「あたし、このあいだにおふろへはいってきますわ。せっかく立てたもんだから。だんなも千蝶さんも、将棋でもさしていてくださいな」  と、そのまま奥へはいってしまった。あとで久左衛門に千蝶のふたり、いわれるままに将棋盤を持ちだしたが、どうせヘボ将棋なのである。一番二番はまたたくまに詰んで、つまらなそうに駒を投げだしながら、 「師匠はまだ出てこないのかしら」  と、千蝶はなまあくびである。 「どうせ女の湯だから、ながいにきまっている。宗匠、もう一番」 「そうですね」  と、千蝶は気乗りがしないふうでタバコを吹かしながら、しきりにおくのほうへ耳をすましている。ちゃぶちゃぶという湯をつかう音。千蝶はさっきから、それが気になってたまらないのである。  秋とはいえ、まだそれほど寒い時候ではないから、このへんでは野天ぶろである。  月の光にてらされた文字常のしろい裸身、むっちりとした乳房、腰から脚へかけてのふくよかな曲線、白い膚にべっとりからみついたおくれ毛、そして、そして……。 「おい、千蝶さん、なにをぼんやり考えているんだよ」 「へっ、いえ、へっへっへ」  千蝶が首をすくめて、ごっくり生つばをのみこんだとき、うらのほうでがたりという音、あれえッ! と、文字常のたまぎる声。とたんに、千蝶腰をうかして、 「師匠、師匠、どうかしましたかえ」 「いえ、あの、ほっほっほ、かえるをふんでびっくりしたひょうしにひっくりかえって……こっちへきちゃいやですよ。もういちどはいりなおさなきゃ。すぐ出ますから待っていて……」  それから文字常は、湯上りのにおうような膚をして出てきたが、 「ほっほっほ、いやんなっちまう。おふろから出ようとすると、なにやらぐにゃりとするものが足の下にいるでしょう。びっくりしてとびのく拍子に、すべってころんで、ほら、こんなにすりむいてしまって……」 「危ないな、気をつけなきゃ……」 「はっはっは。しかし、見たかったな、そこんところを。おまえさんすっ裸だったんだろう。いったい、どんなかっこうで……」 「いや、いや、千蝶さん、意地がわるいわ。それにしても、みなさんまだかえらないのかしら」 「そうさね。もうぼつぼつかえってきそうなものだが……まさか、三人ともばかされちまったわけじゃあるまいが……おや! あれゃなんだ!」  千蝶のことばに、文字常、久左衛門のふたりとも、ふっと耳をすましたが、すると、月夜のしじまを縫うてきこえてきたのは、細いかんだかい子どもの声。なにか叫んでいるらしいが、ことばの意味までわからない。しかし、声の調子からして、ただごとでないように思われる。気がつくと、たぬきばやしはいつしかやんで、縁のまえには月の光がしらじらと……。  ところで、その叫び声をきいたのは、この三人ばかりではなかったのである。  文字常のうらを流れている小川を、ものの五町も下っていくと、そこに大きな池がある。ぞくにこれを隆光寺の池とよんでいるのは、そこに昔、隆光寺という古い寺があったからである。  その寺は、いまもあることはあるけれど、みるかげもなく荒れはてて住むものもなく、いかさま狐狸《こり》のすむにはくっきょうの場所となっている。  この隆光寺のちかくには、聖天の屋敷跡というのがあるが、これまた、むかしそこに下屋敷を持っていた聖天なにがしという旗本が、なにかのとがで改易となってからは無住の空き屋敷となり、隆光寺とともに荒廃をきそっている。  それから少しはなれたところに、久左衛門の大きなわらぶきの家があるが、そのへんいったい武蔵野とくゆうの雑木林や竹やぶにとりかこまれ、街道からわずか四、五町しかはなれていないのに、昼でも物騒なところになっていた。  いましもその森蔭をとおりかかった三人が、ぎょっとしたように足をとめると、 「辰、豆六、いまのさけび声をきいたかえ」 「へえ、親分、あれは子どもの声のようでしたが……」 「あっ、親分、またきこえる……」  いうまでもなく人形佐七に辰と豆六、たぬきばやしの評判があまり高いから、わざわざ出向いてきたのである。  と、そのときまたもやきこえてきたのは、 「ひと殺しよう……。だれかきてえ……ひとが殺されているのよウ……」  それをきくなり、三人は声のするほうへ走っていったが、と、むこうからこけつまろびつ走ってくるのは、十二、三の女の子である。  三人のすがたをみると、とびついてきて、 「あっ、おじさん、ひと殺しよ、人が殺されてんのよ。こっちへきてえ……」 「どこだ、どこだ」  竹やぶをくぐっていくと、大きな池のほとりへ出たが、みると、男がひとり池のなかをのぞいている。 「あっ、だれかきてるわ」  足音にこちらをふりむいたのは、浪人者の谷屋与右衛門である。月の光にその顔をみると、佐七ははっと目をかがやかしたが、すぐさりげなく、 「ひと殺しというのは……?」  与右衛門は無言のまま、池のなかを指さした。鏡のようにあかるい池に、男がひとり仰向けにうかんでいる。のど仏にぐさりとなにやら突っ立てて死んでいるのは鶴次郎である。  削竹《そぎたけ》の血   ——ねらったってああうまくはいくめえ 「なるほど。それで、鶴次郎《つるじろう》と棟梁《とうりょう》が、ここでけんかをしたあげく、たぬきばやしを検分しようということになって、谷屋さんと三人で出ていったというんですね」 「いえ、あの、棟梁のほうではべつになんとも思っていなかったんです。ただ、鶴さんがにくまれ口をたたいただけで……」  意外な珍事におどといたのか、女師匠の文字常は、ただもうおろおろするばかり。あれからまもなく、死体を親元にひきわたすと、与右衛門とともに文字常のもとへやってきた佐七だったが、そこにはひと足さきに棟梁の秀五郎もかえってきていて、話をきくと一同青くなってふるえあがったのである。 「うむ、それゃまアどっちでもいいとして、さて、出かけていった三人は、それからどうしたんですえ」 「はい……」  秀五郎は土色になった舌をなめながら、 「わたしと、鶴さんと、こちらの先生と、三人いっしょに聖天屋敷のそばまでまいりましたが、いつまでも三人いっしょじゃおもしろくないから、ここでひとつ別れようじゃあないかと鶴さんがいいますので、そこでべつべつになったんです」 「うむ、うむ。それで……?」 「わたしはしばらくあのへんをぶらついておりましたが、なんだかバカバカしくなってきたので、こっちへ引きあげてきたんです。かえる途中で子どもの声をききましたが、まさかそんなこととはしりませんので……」 「なるほど、谷屋先生、おまえさんは?」 「わしもおんなじことよ。しばらくあのへんをほっつきまわっていたが、バカらしくなってきたので引きあげようとするところへあの声さ。そこでまた、ひきかえしてみたところがあのありさま。驚いているところへ、おまえたちがやってきたのよ」  浪人の谷屋与右衛門、すましてあごひげをぬいている。  どこか不敵なつらだましいだった。 「なるほど、それじゃこんどはこっちにのこったおふたり……じゃなかった、師匠をいれて三人ですが、おまえさんがた、ずっとここにいなすったんでしょうねえ」 「へえ、それゃもう、あっしと久左衛門さんは、ずっとここで将棋をさしておりましたよ。それから師匠はうらの野天ぶろへはいっておりましたが、しじゅう湯を使う音がきこえておりましたし、それに、ぬぎすてた着物が、ほら、ここからみえるうらの縁側にありましたから、まさか出かけやいたしますまい。いかに月がいいからって、裸で浮かれ出やアしますまいからねえ」  千蝶はどこかひとをくった調子である。 「師匠、そのとおりだろうねえ」 「はい、それにちがいございません」  佐七はふところから手ぬぐい包みをとりだすと、なかから出してみせたのは、一尺ばかりの青竹だった。しかも、そのきっさきが竹槍《たけやり》のように切りそがれ、赤黒いしみがべっとりついているのをみると、一同、おもわずぎょっと息をのんだ。 「親分、それじゃそれが……」 「そうです。鶴次郎ののど仏にぐさりと突っ立っていたんですよ。ねらったってああうまくいくもんじゃない。ところでみなさん、この青竹に見覚えはございませんか」  一同は顔見合わせてみたが、すぐに千蝶がひざを乗りだして、 「親分、隆光寺のやぶへいきゃ、いくらでもそういう青竹はございますよ。それに、いまのおまえさんの話じゃ、ねらったってああうまくはいかないとのこと。すると、下手人はよっぽど腕の立つやつにちがいない。これゃ百姓や町人のしわざじゃありませんね」 「というと、谷屋先生の……」 「だからさ、先生にもういちどよくおききなさいまし。先生もいっしょにたぬき退治に出かけたひとりですからねえ」  千蝶はふくみのあることばだったが、与右衛門はいっこう平気で、あいかわらずあごひげを抜いている。佐七はちょっとそのほうへ目をやったきり、なんにもいわずに、こんどはタバコ入れをとり出した。 「ところで、ここにもうひとつ見てもらいたいものがあるんですがねえ。ほら、鶴次郎のふところには、こんなタバコ入れがはいっていたんです。あいつのタバコ入れはちゃんと腰にぶらさがっていたから、これは他人のものにちがいねえ。どなたかこれに……」 「あっ、そのタバコ入れは棟梁《とうりょう》の……」 「えっ、これゃ棟梁のタバコ入れですかえ」 「はい、さっきここを出ていくとき、棟梁はたしかにそれを腰へさして……」 「いえ、そのタバコ入れについては、申し上げることがございます」  千蝶の話をさえぎって、秀五郎がひざを乗りだしたときである。表のほうからどやどやとはいってきたのは辰と豆六。みると、さっきの女の子と、その子の父とおもわれる四十ぐらいの男をつれていた。  いうまでもなく、ばかされ伊十と娘のお光なのである。  浅香伝八郎   ——お光坊おまえなにを見つけたのだえ 「いや、もう親分、骨を折らせましたよ。伊十め、なんにおびえてかびくびくもんで、どうしてもいっしょにいくといやがらねえ。やっとのことで引っ張ってきたんです」 「ほら、見なはれ。まるで、てんぐでもさらいにくるみたいに、お光をああして抱きしめて……伊十さんや、もう大丈夫やさかいにな、親分が顔を見せはったからには、たといあいてがてんぐ鬼神でも、もうなにも恐れることはあらへんぜ」  だが、そういわれても落ち着かないのか、伊十はひっしとお光を抱きしめて、おどおどあたりを見回したが、なにを見付けたのかさっと顔色をうしなうと、いよいよつよくお光を抱いた。  佐七はじっとそのようすをながめていたが、やがてにんまりほほえむと、 「これ、お光坊、お光坊、おまえはいい子だな。ところが、お光坊、おまえはよい子どものくせに、なんだってあんなところをうろうろしてたんだえ」 「だって、あたいくやしいんだもん」 「これ、お光、なにもいうじゃねえ」 「あはっはっは、いいなあ、お光坊、とっつぁんのいうことなんざ気にかけるんじゃあねえぞ。で、なにがくやしいんだえ」 「でも、みんながおとっつぁんをバカにするんだもの、たぬきにばかされたバカおやじだの、ばかされ伊十だのって、あたいまでからかうんだもの。だから、あたいくやしくって、たぬきを見つけて仕返ししてやろうと思って……」 「これ、お光、めったなことを……」  ひしと娘をかかえた伊十は、そうっと顔をあげたが、すぐまたおびえたように目を伏せる。 「それでお光坊、おまえなにか見つけたか」 「それがねえ、おじさん、よくわからないのよ。あたいこのあいだから、毎晩おとっつぁんのねたあとで、こっそり家をぬけ出して、隆光寺の池へいっていたの。でも、たぬきなんか出てきやアしないのよ。ただねえ、たぬきばやしのあいまあいまに、おりおりどっかで、ひとの笑い声なんかするの」 「こ、これ、お光、なにもいうじゃねえ。なにもいっちゃいけねえってば……」 「いいんだよ、いいんだよ。お光坊。で、その笑い声はどこからきこえるんだえ」 「それがよくわかんないの。隆光寺からみたいなときもあるし、聖天屋敷からきこえるみたいなときもあるの、それからまた、久左衛門さんのところから……」 「め、めっそうな、そんなことが……」  久左衛門はどきっとした顔色だった。 「はっはっは、だんな、あいてはどうせたぬきだから、いろんな芸当をしますのさ。いちいち気になさることはありませんよ。それから、まだどこからきこえるんだえ」 「それからまた、池のなかからきこえるようなときもあるの。今夜は池の中からきこえるみたいだから、あたいなんの気もなくのぞいてみたら、あのひとが浮いていて……」 「ああ、そうか。いや、それでよくわかった。おまえはなかなか利口な子だから、いずれおかみからほうびがおりるぜ。おい、伊十さん」 「へ、へえ」 「この子はおまえにゃア過ぎもんだな。おやじは裸踊りをさされたり、馬のわらじをのっけられたり、それでもぐうの音も出ねえのに、子どもはこれだけのことを調べている。伊十さん、おまえもいいかげんにどろを吐いたらどうだえ」  伊十はさっと土色になった。だれかぎこちなく身動きするものがある。  佐七はにやりと笑いながら、 「伊十さん、これはおれの当てずっぽうだから、ちがっていたらちがうといいねえ。このあいだの晩、たぬきばやしを探検にいったおまえは、なにか思いがけねえものを見付けたんだろ。見ちゃならねえものを見たんだろ。そこを悪者につかまって、危うく殺されようとした。そこを平あやまりにあやまって、やっとその場は許されたが、一言でもその場のようすをしゃべったら、かわいい娘をかどわかし、殺してしまうとおどかされた。そこで、おまえは恥をしのんで、たぬきにばかされたことにして、その晩のことをごまかしてしまったんだろ。どうだ。伊十さん、ちがうか」 「へえ、へえ……いえ、めっそうな」 「ふうん、そのようすでは、よっぽどおどしが利いているんだな」 「べつに、だれにもおどされたおぼえは……」 「ないというのか。悪者はおおぜいいるから、たとえひとりやふたりつかまえても、残ったやつがきっと仕返しするとおどかされたんだな。よしよし、その顔色じゃなかなかいうめえ。なに、おまえにきかずとも、ほかにきくひとがある。もし、棟梁、おまえ、たぬきの穴をしっているだろう」 「たぬきの穴を……このわたしが……?」 「そうよ、みねえ、おまえの着物にゃ、いっぱいどろがついている。そのどろにゃ貝がらがまじっている。このへんにゃむかしから、ところどころ縦穴や横穴があって、そこから貝がらがたくさん出るということをきいている。おまえ、今夜そういう穴へ入っていったろう」 「あっ、そ、それじゃあれがたぬきの穴で……」 「そうよ、たぬきもたぬきも古だぬき、偽金づくりの巣だあな」  そのとたん、だれが投げたかタバコ盆が、佐七の肩をかすめてとんだとおもうと、あたりいちめん灰神楽《はいかぐら》。  その灰神楽のなかで、どすんばたんと取っくむ音がきこえていたが、やがて灰神楽のおさまったところをみると、なんと久左衛門と千蝶が、みごと数珠つなぎになっており、浪人の谷屋与右衛門が、捕りなわのはしをとって颯爽《さっそう》と立っていた。 「浅香伝八郎様、おみごと……」 「おお、佐七、そちゃ拙者を存じていたか」 「しらずにどういたしましょう。お勘定がたにそのひとありとしられた浅香様、その浅香様が世をしのんでここにいらっしゃることがわかったときから、あっしゃちかごろうわさのたかい偽金づくりとにらんだんです。で、だんな、手配りは?」 「おお、その手配りはできているが、なにをいうにも四通八達のあの抜け穴、雑魚いっぴき逃がしてもざんねんと、いままで控えていたのじゃが」 「そんなことなら、ここにいる棟梁はじめ伊十さんやお光が、知っているかぎりの穴をお教えしましょう。おい、伊十さん、こうなったら……」 「へえ、もうこうして頭目がつかまったら、なに恐ろしいことがございましょう。いままでの恥辱をそそぐためにも……」 「おっと、それでなきゃ江戸っ子とはいわれねえ。浅香様、あっしもお手伝いいたします。少しもはようお手入れを……」 「佐七、かたじけない」  それからまもなく傾城《けいせい》ガ窪《くぼ》あたりには、たいへんな騒ぎがもちあがった。  久左衛門宅と聖天屋敷、隆光寺の三方からふみこんだ浅香伝八郎の配下のものは、地下にうごめいているたぬきの一味を、かたっぱしから縛りあげた。  また、四通八達のあの抜け穴から逃げ出すやつは、棟梁の秀五郎や鍛冶屋の伊十、さてはお光の案内で張りこんでいた辰や豆六に、これまたあまさず捕らえられ、ここにさしも当時江戸をさわがせた偽金づくりの一味はことごとくとらえられたのである。  あとでわかったところによると、一味の頭目は久左衛門で、俳諧師の千蝶は参謀ともいうべき役目。千蝶は偽金をつかってあるく役と、同時にすこしでも疑いの目がむけられたら、すぐさま知らせる謀者《ちょうじゃ》の役をつとめていたのである。  ところで、問題の穴だが、のちに久左衛門が白状したところによると、それはあたらしく掘ったものではなく、以前からそこにあったのを、はからずも久左衛門が発見して、かれらの悪事に利用したのである。  案ずるに、それはおそらく、先住民族の穴居のあとの貝塚《かいづか》だったろう。本郷から小石川にかけては、いまでもまま先住民族の遺跡が発見されるが、おそらくこれもそのひとつだったにちがいない。  だが、それはのちにわかった話で、さて偽金づくりの一味もあらかたつかまって、残ったやつも文字どおりに、松葉いぶしで穴からおいだし、ことごとくおなわちょうだいしたそのあけがた、文字常のところへひょっこりやってきたのは、佐七と棟梁秀五郎である。  意外な下手人で   ——ことのついでに下手人はたぬきと 「あれ、親分、おつかれでございましたろう。そして、あの……浅香のだんなさまは?」 「浅香のだんなは、偽金づくりがつかまったので、大喜びでおひきあげだ。そうそう、おまえによろしくといっていらしたぜ」 「それじゃ、偽金づくりはことごとくつかまりましたか」  文字常はなんとなく不安そうな顔色だった。 「そうよ。それもだんなのほうは御用ずみだが、こっちはそういうわけにゃいかねえ。まだ、鶴次郎殺しの一件がのこっている」 「ああ、あれ……?」  文字常ははっとしたように秀五郎と顔見合わせると、じっとその場にうなだれた。佐七はまじまじとふたりの顔を見くらべながら、 「棟梁、おまえさっき、宵《よい》にたぬきの穴へはいったことは白状したが、もしや、そのとき、鶴次郎といっしょじゃなかったのかえ。あの鶴次郎の着物にも、おまえとおなじようなどろがついていたぜ」  秀五郎はそれをきくと、はっとその場に両手をついた。 「恐れ入りました。親分、おまえさんにあっちゃかなわない。なにもかも申し上げます」  かれの話によるとこうである。  三人わかれわかれになったのち、秀五郎はひとりで隆光寺のやぶのほとりまでやってきたが、するとそこへ鶴次郎がおっかけてきて、むこうに変な穴があるから行ってみようという。 「あっしゃあいつに恐ろしい魂胆があろうとはしりませんから、いっしょにあの穴へはいっていったんです。すると、だしぬけに鶴次郎のやつが躍りかかって、首をしめようとするんです。なに、力ずくじゃ負けやアしません。あっしゃそれをふりほどいて、穴のなかからとび出すと、それからしばらくしてこっちへかえってきたんです。あのタバコ入れは、そのとき鶴次郎にとられたものにちがいございません」 「なるほど、ところで、棟梁、おまえここへかえってくるとき、どっちからかえってきた。表からかえったか、裏からかえったか」  それをきくと、文字常と秀五郎のふたりは、くちびるの色までさあっと紫色になった。 「はっはっは、図星だったらしいな。おまえ裏からかえってきたろう。そうしたら、そこに鶴次郎のやつが、あの青竹にのどを突かれて……師匠、これみねえ。これが鶴次郎の指にからんでいた髪の毛だ。男の髪にしちゃ長すぎる。それからあの青竹だが、あらアさっき裏へまわってみたんだが、これとおんなじ青竹がいたちよけに植えつけてあるのをみた。師匠、鶴次郎は隆光寺池で殺されたんじゃねえ。ここでおまえに殺されて、うらの川へ流されたんだ。それが流れ流れて、うまいぐあいに隆光寺池へ……」  文字常はわっとその場に泣き出した。 「すみません、すみません。でも、あれはあたしが殺したんじゃなかったんです。うらの野天ぶろへはいっておりますと、いつのまにかえってきたのか鶴さんが、やにわにあたしに飛びついて、無体なことをするんです。たぶん、あたしがふろへはいっていたから、久左衛門さんや千蝶さんもかえったあとだと思ったんでしょう。裸のあたしをその場にねじ伏せ……あたしとしても十五や十六の小娘じゃなし、それになりがなりですから恥ずかしくて、救いを呼ぶこともできません。それをよいことにして、鶴さんがむりやりに……あたしは夢中になってあのひとをはねのけました。すると、そのとたん、あのひとが足滑らしてうつむけに倒れたかと思うと、あの青竹にぐさりとのどを貫かれて……」  文字常はいまさらのように身をふるわした。 「いや、それでよくわかった。おまえの細腕で、ああうまくのどがねらえるもんじゃねえと思っていた。ところが、そこへ棟梁がやってきて、死体をうらの川へ流したんだな」  文字常と秀五郎は無言のままうなずいた。 「しかし、師匠、それならそれで、なぜはっきり申し立てねえ。わけを話せば、だれだって、おまえを下手人とはいやアしねえ。いわば鶴次郎は自業自得だ。それをどうしてかくしていたんだ」 「はい、それは……」 「師匠、おまえの弟の吉松はどうしたえ」  あっ——文字常はふたたびさっと青ざめる。  佐七はにんまり笑いながら、 「師匠、おまえのほうでは知るまいと思っていようが、おいらちゃんと知っているぜ。下谷で文字常といやアとおり者だったからな。それがまた、なんだってこんな草深いところへ引っ込んだものかと、さっきはじめておまえの顔を見たとき、正直おれはびっくりした。だが、そのときふっと思いついたのは、おまえの弟の吉松のこと。吉松は八人芸で売っていたな。ひとりで笛、鉦《かね》、太鼓、いっきになんでもやる。それと、こんどのたぬきばやし、そこへもってきて浅香のだんなの顔を見たから、おらあいっぺんになにもかもわかったんだ。浅香のだんながきているからにゃ、偽金づくりにちがいねえ。だが、偽金づくりとたぬきばやしと、いったいどういう関係があるんだろう。と、そう考えたとたん、偽金をつくるにゃふいごの音もしようし、金づちの音もしようと気がついた。それをごまかすためにゃ、なるほど八人芸のばかばやし、それをたぬきばやしといいふらすことは、こいつはたぬき以上の芸当だと気がついたんだ」 「親分さん」  文字常は、はっとその場に手をつかえた。 「吉松はなんにも知らなかったんです。千蝶さんにだまされて、穴の中へつれこまれ、いうことをきかねば殺してしまうとおどかされ、心ならずもおはやしをやっていたんです。吉松が苦労して、その由をそっと手紙でしらせてきたから、なんとかしてぶじに救い出してやりたいと、あたしはここへ移ってようすをうかがっていたんです。でも、でも、もうだめですねえ。偽金づくりの一味のこらず捕らえられたということですから、吉松もきっといっしょに……」  と、涙にぬれた目で、ひょいと上がりがまちをながめた文字常、おりからそこへはいってきた若者の顔をみると、 「あれ、おまえは吉松」 「姉さん……」 「はっはっは、師匠、これでなにもいうことはあるめえ。さっき吉松から話をきいたから、浅香のだんなにお慈悲をねがってやったんだ。そればかりじゃねえ。おまえもひとつ浅香のだんなにお礼をいわなきゃならねえぜ。だんなははなから鶴次郎が池のほとりで殺されたのではないことを知っていなすった。鶴次郎のやつがうらの川を流れていくのを、だんなはちゃんと見ていなすったのだ」 「えっ?」 「だんなはこうおっしゃる。鶴次郎は悪いやつだ。ことのついでに、たぬきに殺されたことにしてしまえと。棟梁」 「へえ」 「男はみめかたちより心のまことがだいいちだ。ようすのいいのにほれるのは小娘のこと、師匠ぐらいの古だぬきになりゃ……おっと、こいつは禁句禁句。はっはっは、兄妹《きょうだい》をいたわっておやりなさいよ。どうやら夜が明けたそうな。それじゃおいとましましょうかね」  名月の夜はほのぼのとあけて、もう東の空が白みかかっていた。     お玉が池  お玉が池|俳諧《はいかい》興行   ——白浪《しらなみ》の砕けてちるや十手風  江戸一番の御用聞き、人形佐七がお玉が池にすんでいることは、みなさんすでにご承知のとおりだが、このお玉が池というのは、現在どのへんにあたるかという質問を、筆者はしばしば受けることがある。  そこで、古い地図をしらべてみると、いまの和泉町《いずみちょう》から松枝町、松下町あたりにあったものらしく、太古にはここに大きな池があった。  そのころ、このあたりは奥州街道の間道になっていたが、伝説によると、そこにお玉という美人が住んでいたそうである。  お玉は鄙《ひな》にはまれなる美人だったから、いい寄るものも多かったが、なかでも熱心なのがふたりの若者。  お玉はこのふたりの板ばさみになって思い悩んだ。甲になびけば乙にすまず、乙にしたがえば甲にすまぬというわけで、気のよわいお玉は、とうとう、この池に身投げしたというのである。  爾来《じらい》、池の名を、お玉が池とよぶようになったというのだが、古記によると、お玉は身投げのさい、いちまいの鏡を懐中にしていたそうで、その鏡はお玉の肉体がくち果てたのちまでも、ながく池底にのこって、月のよい晩など、どうかすると、水中からあやしい光を発したという。  さて、これでお玉が池の講釈はすんだが、ここに居をかまえている人形佐七、ちかごろ妙な道楽に凝っている。  佐七の道楽というと、にやにやするむきもあるかも知らぬが、さにあらず、こんどはそんな色っぽい沙汰《さた》ではなく、俳句に凝りはじめたというのだから天下太平。  もっとも、これには理由のあることで、ちかごろ近所へ越してきた人物に、玉池庵青蛙《ぎょくちあんせいあ》という俳句の宗匠がある。  ちかくのことだから、ちょくちょく出入りをしているうちに、佐七もいつか、春雨や、などとやり出したというわけだ。  すると、妙なもので、辰や豆六までが見よう見まねで、五月雨やとか秋雨やなどと、季題のあわぬ俳句を作り出した。  すると、女房のお粂までがまけぬ気になって、初時雨——なんてやるもんだから、佐七の家はちかごろとんと、雨漏りでもしているようだ。  これが昂《こう》じると、辰だの豆六だのではうつりが悪い。  ひとつ雅号をつけようじゃないかということになって、まず第一に名乗りをあげたのが佐七の十風、これは十手風という意味だそうだから、なるほど、御用聞きらしい。  さて、きんちゃくの辰五郎は五辰、うらなりの豆六は裏豆、お粂は粂女とそれぞれ納まり、ではひとつおひろめに句会を開こうということになり、そこで十風宗匠の出した題というのが、『白浪《しらなみ》』。さすが御用聞きだけに、どこまでも、ぬすっとに縁があるのはたいしたものだ。  その夜、ふたりの宗匠と、ひとりの閨秀《けいしゅう》俳人のよんだ俳句というのをご披露《ひろう》すると、  白浪の砕けてちるや十手風 十風  白浪をおいかけいくや御用船 五辰  白浪のあとものすごし枯れ柳 粂女  お粂はもと吉原で全盛をうたわれた女だけに、琴棋書画《きんきしょが》、なんでもひととおりは心得ているが、俳句もどうやら亭主よりうえらしい。  さて、さいごに裏豆宗匠だが、これが妙ににやにやしているから、 「これこれ、裏豆さん、そう気取らずに、おまえさんの発句を出してみさっし」 「へっへ。こればかりは十風宗匠にもわかりまへんやろ」  おつに気取って豆六が見せた句というのが、  白浪の菜をひいていくかゆさかな 「あれ」  と、三人はおもわず顔を見合わせた。 「これこれ、裏豆さん、白浪が菜を引いていくというのはわかるが、それがかゆいとはどういうわけだえ」 「そやさかいに、十風宗匠や五辰さんにはわかりまへん。そら、なぞ俳句やがな」 「なぞ俳句?」 「そやそや。シラナミからナを引いてみなはれ。なにになるかわかりまっしゃろ」 「シラナミからナを引く……? シ、ラ……あら、いやだよ。裏豆さん 「こん畜生」 「へっへ、どんなもんや」  と、裏豆宗匠は鼻たかだかだったが、いずくんぞ知らん、それから間もなくおこった事件で、なぞ俳諧が重要な役目をなそうとは、神ならぬ身の三人、ゆめにも気付かなかったのである。  それはさておき、佐七の大師匠、芭蕉のおきなの再来とまでいわれている。  さいきんまで深川に住んでいたが、それではなにかと不便であるというので、門人たちが金をあつめて買いとったのが玉池庵。  これはもと芝|札《ふだ》の辻《つじ》の有名なものもち、釜屋という鉄物問屋の寮だったが、ちかごろ住むものもなくあれていたのを、この近所に住む、和泉屋柳雨という弟子がゆずりうけ、そこへ青蛙《せいあ》宗匠を迎えいれたのが半年ほどまえのこと。  さて、この玉池庵の屋敷のうちに、かなり大きな池がある。  坪数にして百坪あまり、水が青んで、藻草《もぐさ》がいちめんに池の面をおおうているところは、いかにも古池の面影をそなえている。  近所のひとは、これこそお玉が池のなごりであるといっているが、それはどうだかわからない。  しかし、青蛙のおきながこの古池を愛することは非常なもので、そのかみ、深川の芭蕉庵で、流祖芭蕉のおきなが、かわずとびこむとよんだ古池もかくやとばかり、日夕、池のまわりを徘徊することをおこたらなかったが、するとまもなく、この池に関連して、ひとつの事件がおこったのである。  盗まれた千両箱   ——池の底できらきら鏡が光っている  それは九月なかばの、しとしとと秋雨の降るある夜のこと、この玉池庵で連句の会があった。あつまったのは柳雨をはじめ、おきなの高弟ばかり、ほかに佐七の十風が顔を見せているのがめずらしかった。  佐七は、連句にかけてはずぶの素人だが、あるじの青蛙とは妙にうまがあって、今夜もひょっこり遊びにきたところがこの会で、亭主の引き止めるままに居座っていると、まもなく俳諧興行もすみ、あとは師弟うちまじってのよもやま話。  いずれも風流人ばかりだから、話題もいきおい、諸国の歌まくらや、花鳥風月に関することが多かったが、そのうち、青蛙のおきながふとひざをすすめて、こんなことをいった。 「ときに、みなさん、この庭にある池だが、近所のものはこれこそお玉が池のなごりだといっている。みなさんはそれをどうおぼしめす」  なんとなくにやにやした顔つきだから、一同はおもわず顔を見合わせた。  青蛙のおきなはそのころ五十五、六、まことに枯れきった風格だが、ときどきいたずらをして、ひとを驚かすくせがある。だから、師匠が改まればあらたまるほど、一同は警戒気味で、 「さあ……明暦ごろの絵図をみると、このへんにお玉が池のあったことはたしかですが、それがこの池ですが、どうですかねえ」  だれかが、どっちつかずの返事をすると、 「いや、ごもっとも。わたしもじつは半信半疑だったが、ちかごろ思いなおしたよ。みなさん、これこそ伝説のお玉が池にちがいあるまいよ」 「へへえ。すると、なにか文献でも見付かりましたか」 「いや、文献なんて七面倒なものじゃない。もっとたしかな証拠があるんだ。みなさん、あの池には、お玉の幽霊が出るんだよ」  真顔になっていったから、一同はおもわず顔を見合わせた。なにしろ、ひとをかつぐのが上手なおきな、うかつな返事をするとあとで笑われる。 「へへえ、それはまた風流なことで。お玉が池の伝説は古いことだそうですから、お玉の幽霊も、さぞ、時代ななりをしているでしょうねえ」 「ところが大違いで、幽霊でもそこはわかい娘のこと、流行に遅れてはと思っているんだろう、いまどきはやりのなりをしている」  と、まじめなのか、冗談なのかわからぬ顔色だった。 「それはまた、心がけのよい幽霊ですが、しかし、どうしてそれがお玉だとわかりました。身の上話でもいたしましたか」 「いや、そうくるとおもしろいのだが、あいては気のよわい娘のことだから、わたしの姿をみると、いつも逃げだしてしまうんだ」 「それでは、お玉だかどうだか、わからないではありませんか」 「いや、ところが、ここにもうひとつ、証拠がある。みなさんもご存じだろうが、お玉は身投げのさい、鏡を懐中していたという。そのころ、夜な夜なその鏡が光を発したということだが、あれ、ごらん、池のなかを……」  青蛙の声に池のほうをふりかえった一同は、おもわずあっと驚きの声をはなった。なるほど、池の底に、なにやらきらきら光るものがある。  佐七はそれをみると、すぐ庭にとびだした。ほかの連中もゾロゾロあとからついていく。  のぞいてみると、池はかなり深いらしく、青くよどんだ水底には、藻草がいちめんにしげっているが、その草のしたで青い光を発しているのは、たしかに丸い鏡だった。 「なるほど、鏡ですね」  一同はしばらく息をのんでいたが、門人のひとりがふと思い出したように、 「あれはまさか、おまえさまのじゃ……」 「なんの、なんの……こればかりはいたずらじゃない。なんとみなさん、こうして鏡が沈んでいるからには、これまさしくお玉が池。あの鏡をしたってくるからには、お玉の幽霊にちがいありますまい」  青蛙はそういいながら、佐七の横顔を見詰めている。  それからまもなく、一同が妙なかおしてかえっていくと、あとには青蛙と佐七のふたり。  座敷へかえると、佐七はひざをすすめて、 「ときに、宗匠、いまの話はほんとうでしょうね。そして、いったい、その幽霊というのは、どんななりをしているんです」 「そうさな。夜目遠目でしかとはわからぬが、島田に結って、はでなふりそでを着ているようだ」 「へへえ? そして、あの池のなかの鏡ですが、あれに気がついたのはいつごろのことで?」 「ふむ、あれか。あれはな、このあいだのあらしに、池の水があふれて困ったことは、おまえさんもしってるね。あのとき、藻草が流れたとみえて、わたしが鏡に気がついたのは、その翌晩のことだった」 「なるほど。しかも、ここはいぜん釜屋の寮……」  と、おもわず漏らす佐七のことばに、 「さすがは十風さん、それじゃあのことに……」 「えっ、それじゃおまえさんも……?」 「おお、気がついたからこそ、おまえさんにしらせてやりたいと思っていましたのさ」  と、ふたりが意味ありげに顔見合わせたのには、ここにひとつの理由がある。  この寮のいぜんの持ち主、札の辻の釜屋には、去年ひとつの騒動があった。  釜屋の主人の武兵衛《ぶへえ》というのは、日ごろから狸穴《まみあな》の駒止《こまどめ》弁天を信仰していたが、去年その弁天様へ千両箱を寄進した。  いかにものもちとはいえ、千両箱とはたいした寄進だが、これにはわけのあることで、その春、武兵衛のひとつぶだね、お七というのが、どっとわずらいついて、いちじは医者もさじをなげるほどの重態。  そのとき武兵衛が願をかけたのが駒止弁天、お七の命をたすけてくだされば、千両寄進するとお約束したところが、願いがかなって、お七はまもなく本服した。  そこで約束どおり千両寄進することになったが、その使者にたったのが、出入りの鳶頭《かしら》で鎌五郎というおやじ。ところが、どういうまちがいか、鎌五郎が弁天堂へ千両箱をかつぎこんだのは、夜も五つ半(九時)をすぎていた。  そう遅くなっては、あずけるところもないので、そこで不用心とは思ったが、そのとき、ひと晩、千両箱を堂内にねかせることにしたが、これがそもそもまちがいのもとで、その夜、黒装束黒覆面の強盗が押し入った。  そして、一同をしばりあげると、千両箱をうばって逃げさったが、そのとき、箱のうえにかざってあったのが、駒止弁天の御神体となっている御|神鏡《しんきょう》、これもいっしょに奪いさられたのである。  むろん、強盗の詮議はきびしかったが、ここにあやしいのは鎌五郎で、あの晩いらいふっつり姿を消してしまった。  そこで、いろいろ調べると、だんだん怪しいふしがある。  まずだいいちに、鎌五郎が千両箱をもって釜屋を出たのは昼過ぎだのに、弁天堂へ着いたのは夜の五つ半(九時)。これはほかにあずけられないようにと、わざと時刻をおくらせたのではあるまいか。  いったい、鎌五郎というのは五十ちかく、家にはお兼という女房もあるが、酒はのむ、ばくちはうつで、近所の評判もよろしくない。げんに、琴次郎といって、無事でいれば二十二になる息子があったが、おやじに愛想をつかして、三年まえに家出をしたきり、いまもってゆくえがわからないというくらい。  そんなことから、犯人はてっきり鎌五郎ときまったが、さてそのゆくえはわからずじまい。千両箱も御神鏡もいまもって出てこないのである。  ところが、釜屋武兵衛だが、せっかく寄進した千両箱を盗まれたので、いちじはがっかりしたが、やがてまたあらためて千両寄進についたから、さすが資産家はちがったものだと、当時もっぱら評判だった。 「それじゃ宗匠、おまえさんも、池のなかにあるのが駒止弁天の御神鏡だとお思いですかえ」  佐七が尋ねると、青蛙もまじめな顔をして、 「十風さん、それをたしかめるのがおまえの役目だ。あす、あの池をさらってみたらどうだね。なにかおもしろいものが出るかもしれないよ」  おきなはなにか考えがあるらしい口ぶりだったが、そこへ顔を出したのが、お芳《よし》といって、この家の下婢《かひ》。 「あの、だんなさま」  お芳はおどおどした目付きをして、 「もう、やすませていただいても構いませんか」 「ああ、お芳か。おやすみ、おそくなってすまなかったね」  青蛙がおだやかにこたえると、お芳は無言のまま頭をさげて引きさがった。お芳というのは四十四、五、ちかごろ玉池庵に住みこんだのだが、どこか影のうすい女だった。  身に覚えのない連句   ——峠路やみねもしぐるる旅ごろも  さて、その翌日の朝まだき、佐七は辰と豆六をひきつれて玉池庵へでむいていくと、どうしたものか表があかないばかりか、いくら呼んでも返事がない。  ふしぎに思って、庭のほうへまわってみて、三人はあっと立ちすくんだ。もんだいの池のほとりに、女がひとりたおれているのだ。 「あっ、親分、あれゃお芳さんじゃありませんか」  駆けよって抱きおこしてみると、まぎれもなく女中のお芳が、むざんにうしろからバッサリけさ切りにきりおとされて、むろんすでに息はなかった。  それにしても、ふしぎなのはお芳のみなりで、腰からしたぐっしょりどろにぬれて、藻草さえからまりついている。 「親分、これはどないしたんだっしゃろ。お芳のやつ、池の中へ入りよったんだっしゃろか」  佐七はお芳を抱いたまま、きっと池のなかを見つめていたが、そのとき、さっと頭をかすめたのはおきなのこと。お芳がここで殺されているようでは、もしやおきなも……と、座敷のほうへかけつけると、案の定、雨戸がいちまい開いている。しかも、そこから奥のほうへ、ずっとつづいているのは土足の跡。 「辰、豆六もこい」  佐七はすぐさま縁側へとびあがったが、するとそのとき、どこかで苦しげなうめき声。それをきくと、三人はぎょっとしたように立ち止まったが、うめき声はどうやらはなれ座敷らしい。 「親分、あれゃアたしかに宗匠ですぜ」 「よし、こい」  はなれ座敷は縁側をまがったところにある。佐七はまっさきにその居間へとびこんだが、とたんにあっとあとずさりした。  青蛙のおきなが畳のうえにつっ伏して、バリバリと畳の目をひっかいている。背中からはおそろしい血が吹き出して、あたり一面からくれない。その血にまじって土足の跡がべたべたとついている。  佐七はすぐに気を取りなおし、青蛙のからだをだきおこすと、 「宗匠、宗匠、しっかりしておくんなさい。下手人はだれだ」  きいてみたが、むろん青蛙は口もきけない。ただ苦しげなうめき声がくちびるをもれるばかり。 「辰、豆六、なにをまごまごしていやアがるんだ。はやく医者を呼んでこい」  怒鳴りつけられて、はっと気づいたふたりがかけだすうしろから、 「ついでに、かどの和泉屋のだんなにもしらせてこい」  和泉屋のだんなというのは、俳名柳雨、青蛙のおきなの高弟で、いちばん有力な後援者だった。  やがて、医者がくる。和泉屋柳雨がくる。和泉屋から使いをはしらせたとみえて、近所にいる弟子たちもかけつけてきて、玉池庵はうえをしたへの大騒動。なにしろ、父ともあおぐ師匠だから弟子たちもあおくなって心配している。  やがて、医者はひととおり手当をしたが、助かるとも助からぬともいわぬ。 「なにしろ、ご老体のことだから……」  と、おなじく弟子のひとりの医者のことばに、あつまった弟子たちは、いちようにくらい顔を見合わせていたが、やがて、和泉屋柳雨が佐七のほうをむきなおると、 「もし、親分、一刻もはやく下手人を捕らえてくださいまし。仏のようなこのひとを手にかけるとは、鬼のようなやつでございます」  柳雨はもう涙声だった。 「いや、よくわかりました。師匠のかたきはきっと捕らえてお目にかけます。そのかわり、みなさん、ご介抱のほうはくれぐれもよろしくお願い申します」  と、瀕死《ひんし》の青蛙を弟子たちの看護にゆだねた佐七が、やってきたのははなれ座敷。畳にしみついた血の跡や、土足の跡をながめていたが、そのときふと目についたのは机のうえ。  青蛙のおきなは、机にむかっているところを切られたらしいのだが、みると、机のうえにのべられた紙に、連句が六句書きつらねてある。  なにげなくその句に目をやって、佐七はおやとまゆをひそめた。 「辰、豆六、ちょっとこれを見ろ」 「へえ? 親分、なにもこんなさいに、連句なんかみなくってもいいじゃありませんか」 「まあ、いいからここをみろ」 「へえ」  と、ふしぎそうに指さされたところをみて、辰も豆六も、あっけにとられて目をパチクリ。 「親分、こら、いったいどないしたんやろ」  と、三人が三人とも、きつねにつままれたような顔をしたのもむりはない。  その連句というのは、つぎのとおりである。  峠路やみねもしぐるる旅ごろも 青蛙   寺あれ果てて住持いずこに 十風  主もなき宿に虫の音すみわびて 五辰   山門の仁王いまも踏まえど 裏豆  草とれば茨《いばら》の節に指さされ 青蛙   竹吹きたおすやまおろしの風 十風 「これ、五辰に裏豆、おまえたち、こんな連句やったことがあるかえ」 「いいえ、親分、あっしゃすこしも覚えがございません」  身におぼえのない連句、しかもこれは青蛙が切られるまえに書いたものらしいのである。  三人はしばらく、あっけにとられた顔を見合わせていたが、やがてなにを思ったのか、佐七はそのいちまいを手にとると、ていねいにたたんで懐中におさめた。  三人三様の下駄の跡   ——千両箱は、石や瓦や鉄くずばかり  佐七はそれから庭へおりて、池のまわりをしらべてみた。  お芳の死骸は、すでに家のなかへかつぎこんであったが、切られたあとには血だまりができている。ゆうべの雨は、夜中ごろにはやんだはずだが、お芳がぐっしょり髪の根までぬれているところをみると、惨劇のおこったのは、まだ雨の降っている最中だったらしい。  佐七はしばらく池のふちをまわっていたが、やがて辰と豆六をふりかえると、 「ふたりとも見ねえ。ゆうべこの池のそばにきたのは、お芳と下手人ばかりじゃねえ。ここにもうひとつべつの足跡がある」  それは駒《こま》下駄の跡で、池のむこうからかきねのやぶれまでつづいている。どうやらそこから忍びこんだらしいのだが、お芳の殺された池のてまえまではきていない。池のむこうの茂みのなかに、しばらくかくれていたあげく、またこっそりかきねのやぶれから外へ出ていったらしい。 「親分、これゃ女ですね」 「ふむ、そうらしいな」  下駄の跡はたしかに女である。しかし、その歩きかたには、すこし妙なところがあった。はいってくるときはひどい内股《うちまた》なのに、出ていくときは男のような外股の、しかも、かなりの大股で歩いている。豆六もそれに気づいたらしく、 「こら、親分、忍びこんだときはびくびくしていよったんやが、出ていくときにはめちゃくちゃにかけだしよったにちがいおまへんで」  そうかもしれなかった。しかし、どんなに急いだところで、内股の女がこんなにひどい外股になるというのは、変だった。 「それにしても、親分、こいつ下手人となにか関係があるんでしょうか」  佐七もいま、それを考えていたところだ。下手人の足跡は、それとはべつに、庭の木戸からはいってそこから出ている。それはあきらかに男草履の跡だったが、その草履のあとと足駄《あしだ》の跡が、いちども交差していないところをみると、ふたりのあいだに関係がないと考えるのが至当らしかった。  さて、第三にお芳の足跡だが、これは台所の水口から、池のほとりまできているが、どうやらお芳は池のなかへ入っていったらしい。そして、出てきたところをバッサリ切られたらしいのは、腰からしたがぐっしょりとどろ水にぬれていたところからでも察しられるのである。 「辰、豆六、ご苦労だが、これはやっぱり、池のなかへはいってもらわずばなるめえな」 「ええ、ようがすとも。豆六、はいろうぜ」  骨惜しみをするようじゃ、御用聞きは勤まらぬ。辰と豆六はすぐ裸になると、ざぶざぶと水のなかへはいっていった。  当時の九月なかばは、いまの十月なかば。 「わっ、こらつめたい。そして、親分、ゆうべ鏡がみえたちゅうのんは、いったいどのへんだす」 「もっとさきだ。池のまんなかへんだとおぼえている。おや、案外ふけえんだな」  広さのわりには深い池で、水ぎわから二間もいくと、水はふたりの乳のあたりまでとどいた。 「親分、こりゃいけねえ。ちょっと捕りなわを貸してください。おっとしょ。豆六、てめえこのなわのはしをもってくれ。これゃどうでももぐらなきゃなるめえぜ」  捕りなわのはしを腰のまわりにまきつけたきんちゃくの辰は、歩けるところまであるいていくと、 「豆六、しっかりそのはしを握っていてくれよ。なにしろ、ひどい藻《も》だから危なくてしょうがねえ。親分、このへんですかえ」 「ふむ、もう少しさきだ。おお、そのへんだ」  きんちゃくの辰は、そこでくるりと身をおどらせると、まっさかさまに水の中へもぐりこんだ。  泳ぎは辰の十八番、しばらく両脚で水をけっていたが、やがてすっかりからだが見えなくなった。  一瞬——二瞬——やがてぽっかり浮きあがったが、その顔を見たとたん、ふたりはプッと吹き出した。 「わっ、兄い、あんたまるでかっぱやがな」  豆六が笑い出したのもむりはない。頭から藻草をかぶった辰の顔は、奥山にでるかっぱの見世物にそっくりだ。  辰は面《つら》をふくらして、 「なにをいやアがる。笑いごとじゃねえぜ」 「すまねえ、すまねえ。鏡は見つかったか」 「まあ、そう急がねえでください。なにしろ、ひどい藻だから、一度や二度じゃだめでさあ」  それからつづけざまに二、三度もぐっていたが、やがて、手にして浮かびあがったのは、古色をおびた青銅の鏡。 「やっ、あったな」 「豆六、ちょっとこれを持っていてくれ。親分、まだなにか変なものがあるようです」  鏡を豆六にわたすと、辰はまたもや水中にもぐりこんだが、やがて浮かびあがった辰の顔をみると、すっかり度肝をぬかれた目の色をしている。 「辰、どうした、なにがあったんだ」 「お、親分、た、たいへんだ。せ、千両箱だ」 「なに? 千両箱?」 「へえ、たしかに千両箱です。豆六、おまえも手を貸せ」  と、そこで辰と豆六が力をあわせて、まずひきあげたのが千両箱。 「辰、このほかにまだあるのか」 「へえ、なんだかまだ、えたいのしれないものが沈んでいるようです。あっしが綱のはしを結びつけますから、親分、そこから引っ張っておくんなさい」  やがて辰があいずをすると、佐七と豆六がわっしょいわっしょいと引き上げる。  青い水をさわがせ、藻草をわけて、しだいしだいに水際へ引きよせられる黒いかたまり。——それをみると、佐七はなんともいえぬ胸騒ぎをかんじた。 「どっこいしょっと!」  やがて、最後の掛け声もろとも、池のほとりへ引き上げられたのは黒い一物。佐七はつかつかそばへより、おおいかぶさっている藻草をとりのけ、どろを洗いおとしたが、とたんに辰と豆六は、 「わっ、こ、こりゃ!」  と、腰を抜かさんばかりに驚いた。  むりもない。それはまぎれもなく人間の白骨なのだ。肉はすっかり朽ち果てていたが、五体はちゃんとそろっている。  そして、その白骨を包んでいるのは、黒装束に黒頭巾、しかもその黒装束をみると、右の肩から左へかけて、すうっとひと太刀切られた跡がある。  あきらかにこの白骨のぬしは、うしろからけさ切りにきられたあげく、重石《おもし》をつけて、池底ふかく沈められたものにちがいなかった。 「ふうむ。ひどいことをしやアがる」  佐七はしばらくその白骨をにらんでいたが、やがて思い出したように、さっき引き上げた千両箱をこじあけると、とたんにまたもや、ウームとばかりにうなったものである。千両箱のなかは、石や、瓦や、鉄くずばかり、かんじんの小判はいちまいもなかった。  連句が示す下手人の名   ——辰はいささかいまいましそうに 「親分、これゃどうしたんでしょう。だれが小判とすりかえやがったんでしょう」 「そら、兄い、わかってるがな。この黒装束をバッサリやったやつが、小判を盗んで、あとは重石《おもし》に、石やかわらを詰めこみよったにちがいない」 「ふむ。しかし、豆六、この黒装束を、おまえはいったいだれだと思う」 「親分、ひょっとすると、鎌五郎じゃございませんかえ」  辰のことばに、佐七はハタと両手をうって、 「えらい、よくそこへ気がついた。ときに、辰、豆六、おまえたち、いま冷たい思いをしたばかりのところを気の毒だが、これからちょっと、使いにいってきてくれ」 「へえへえ。どこへ参りますんで」 「この鏡をもって、駒止《こまどめ》弁天へいってみてくれ。去年盗まれた御神鏡というのは、これじゃないかきいてくるんだ」 「おっと、がってんです。豆六、行こうぜ」 「おいおい、待て待て。気の早いやつだな。まだ用事があるんだ」 「へえ、どんな用事だす」 「鎌五郎のうちにゃ女房がいるはずだな。その女房を呼んできてくれ」 「へえ、わかりました。兄い、いきまほか」  なにしろしりのかるい連中で、辰と豆六は、からだを洗ってとび出したが、やがて昼過ぎにかえってくると、 「親分、やっぱりおまえさんのいうとおりです。あれは駒止弁天のご神境にちがいねえそうで。堂守はとても喜んでおりましたぜ」 「ふむ、やっぱりそうか。そして、鎌五郎の女房はどうした」 「ところが、親分、そのお兼ちゅうのんは、半年ほどまえに、家をたたんでどっかへいてしもたちゅう話や」 「なに、お兼の居所はわからねえのか」 「へえ、近所のものにきいてもわかりませんので。しかたがねえから、釜屋の番頭、伊十郎《いじゅうろう》さんにきてもらいました。伊十郎さん、なにも怖がることはねえ、まあ、こっちへきなせえ」  紺の前垂れをした伊十郎は、年配四十あまり、実直そうな男だった。 「おお、おまえさんが釜屋の番頭さんか。手間をとらせてすまねえ。おまえさんは、鎌五郎をよくしっているだろうねえ」 「はい、お店の出入りでございましたから……もし、親分さん、いまうけたまわれば、こちらに鎌五郎らしい白骨が出たとやら、もし鎌五郎ならば、たとい骨になっていても、見わける方法がございますんで」 「なに、骨になっても見わけられる? そいつは好都合だ。それじゃひとつ見てもらいましょうか」  裏の女中部屋へつれていくと、そこにはお芳《よし》の死骸とならんで、あの気味わるい白骨がよこたわっている。伊十郎は恐ろしそうに身ぶるいしていたが、やがて白骨の右脚を調べると、 「はい、まちがいございません。これはたしかに鎌五郎でございます」 「伊十郎さん、どうしてそれがわかります」 「おやぶん、ごらんくださいまし。この右足は、人指し指と、中指の骨がくっついております。これがなによりの証拠で。鎌五郎はむかしから、じぶんがかたわだとよく申しておりました」  なるほど、みると骸骨《がいこつ》の指は、二本がひとつに癒着《ゆちゃく》しているのである。 「おお、そうか。それほどたしかな証拠があれば、こいつ鎌五郎とみて差し支えねえな」 「はい、まちがいなかろうと思います。しかし、親分さん、鎌五郎がどうして……」  といいながら、なにげなくとなりによこたわっているお芳の顔に目をやったとたん、伊十郎はあっとばかりにつばをのんだ。  佐七ははやくもその顔色をみてとると、 「伊十郎さん、おまえこの女を知っているのか」 「知っているだんではございません。親分、こ、これゃ鎌五郎の女房、お兼で……」  これをきいて、三人は思わずあっと顔見合わせた。なるほど、これでは、お兼の居所がわからなかったのもむりはない。お兼は名をかえ。素性をいつわり、この玉池庵へ入り込んでいたのである。  さて、その夜のこと。  お玉が池の佐七の家では、佐七をはじめ辰と豆六、それに、女房のお粂までが額をあつめて、妙な連句と首っぴきだった。  身におぼえのない連句、それを切られるまえに青蛙のおきなが書いていたとしたら、これは取りもなおさず佐七にあてた一種の暗号ではあるまいか。——というのが佐七の意見なのである。 「ねえ、おまえさん、あたしゃこれ、漢字のなぞじゃないかと思うよ」 「漢字のなぞというと?」 「ほら、この一句ね、峠路やみねもしぐるる旅ごろもとある。この峠という字、これは山偏に上下と書きます。さて、峰といえば山の上だから、山の下がしぐれてみえなくなれば……」 「あっ、なるほど、すると下という字が残るわけだな」 「ああ、そやそや。すると、こら、なぞ俳諧やな」  なぞ俳諧とわかると、豆六はにわかに元気づいた。草双紙通の豆六は、またこういうなぞ解きがだいすきなのである。 「こらおもろい。そんなら、第二句目はわてが解きまほ。こうっと、寺あれはてて住持いずこにやな。つまり、お寺があれはててなくなったらちゅうわけや。ところで、ここに持つという字がおます。持から寺をのけると、手偏だけ残って、こら手という意味やないか」 「なるほど、こいつはおもしれえ。それじゃ三句はおれが解こう」  と、佐七も面をかがやかせて、 「主もなき宿に虫の音すみわびてか。こいつはやさしいや。住みわびるの住むという字は人偏に主、その主がいねえんだから、人偏だけ残ってりゃこりゃ人だ。こうっと、最初の句が下で、第二句は手、そしてこいつが人とすると……あっ、下手人だ」  そこで四人はおもわず顔を見合わせた。  こうしてりっぱに言葉をなすところをみれば、いま四人が解いている方法の間違いでないことがわかるのだ。  こうなると、豆六はいよいよ乗り気になって、 「親分、こらきっとこのあとに、下手人の名前が出るにちがいおまへんで」 「ふむ。そうかもしれねえ。さて、第四句目だが……」  第四句は、山門の仁王いまも踏まえどだが、これはなかなかむずかしい。四人はさんざん頭をしぼったが、どうしてもわからない。 「おまえさん、それじゃこれはあとまわしにしようじゃないか。つぎのがわかれば、しぜんに解けてくるかもしれないよ」 「ふむ。それじゃ第五句目にとりかかろう。草とれば茨《いばら》の節に指さされ。ふむ、こいつは簡単だ。いばらという字は茨と書く。これから草をとれば次という字だ」 「そやそや、そしていちばんどんじりは、竹吹きたおすで、竹がなくなるねん。こうっと、竹という字がつく字は……」 「豆さん、それゃ五句目にある茨の節の節という字じゃないかえ」 「おっ、そうだ。節から竹をとれば郎という字に似てらあ。そうすると、さいしょから読めば、下手人何次郎」  とたんに、四人の頭にさっとうかんだのは、鎌五郎の息子琴次郎のこと。そこで、あらためて第四句目に目をやったうらなりの豆六。 「親分、わかった、わかった。仁王はつまり二王、王がふたつや、それが今という字を踏まえれば、琴という字になるやおまへんか」  なぞは解けた。  下手人琴次郎——こうしてりっぱに意味をなすからには、この答えにまちがいがあろうとは思われぬ、一同はパッとおもてを輝かせたが、なかにひとり、辰だけはつまらなそうに、 「それにしても、親分、宗匠もくだらねえまねをするじゃありませんか。下手人が琴次郎なら、ちゃんとそう書いとけばいいものを」  こういうなぞ解きなどとくると、いたって不得手なきんちゃくの辰、豆六の得意顔をみるにつけても、いささか中っ腹なのである。  佐七はわらって、 「そうはいかねえ。下手人だって字が読めようじゃねえか。そうあからさまに書いておいちゃ、なんでそのまま見逃がすものか。こうしておいたからこそ、なんにもしらずに、下手人のやつも見逃がしたのだ。それにしても、おきなはどうして琴次郎のやつを知っているんだろう」  そこにはまた、解けやらぬなぞがのこっている。  札の辻小町釜屋お七   ——御家人くずれの鷺坂《さぎさか》駒十郎 「おや、親分、あれゃ釜屋の娘お七ですぜ」  その翌日お昼過ぎ、なにはともあれ琴次郎のゆくえを探さねばならぬと、佐七は辰と豆六をひきつれて、釜屋のちかくまでやってきたが、そのとき、むこうからそわそわと、急ぎあしでやってきた娘。きんちゃくの辰はそれをみると、すぐそうささやいて佐七のそでをひいた。 「ふむ、あれが釜屋の娘か」 「へえ、ちがいございません。きのう番頭の伊十郎と話をしているとき、奥からちょっと顔をみせました。なあ、豆六、ちがいねえな」 「そやそや、たしかにちがいおまへん」  お七はとしごろ十七、八、札の辻でも小町娘という評判があるくらいで、派手な振りそでに赤い手がらをかけたところは、なるほど、絵から抜け出したようにかわいい姿だ。 「それにしても、あのお七、いったいどこへ出掛けやがるんだろう。なんだか妙にそわそわしてるじゃありませんか」 「ふむ、大店《おおだな》の娘が、供をつれず出掛けていくというのはふに落ちねえ。ひとつ、あとをつけてやろうじゃねえか」  三人がつけているとは夢にもしらぬこちらはお七。  とちゅうで辻《つじ》駕籠をひろって乗ったから、佐七はいよいよ怪しんだ。駕籠に乗るんなら、家から乗って出ればよいのである。釜屋ほどの大店だから、出入りの駕籠屋がないとは思えぬ。それをこうして辻駕籠を拾うところをみると、行く先を知られたくないにちがいなかった。  佐七はなんとなく胸がおどったが、と、そのそでをぐいとひいたのは豆六だ。 「親分、あれ見なはれ。あの侍め、お七の駕籠をみると、顔色かえましたぜ」  なるほど、お七の駕籠といきあった侍が、路傍に立って、しばらくあとを見送っていたが、やがてきびすをかえすと、駕籠のあとを追いはじめた。 「おや、あいつ妙なまねをしやアがる」 「ふむ、こいつはいよいよ面白くなってきた。辰、豆六、あの侍に気取られるな」  侍というのは、年のころ二十五、六、ひとめで御家人くずれとわかる風体だ。のびた月代《さかやき》、色白のすごみな顔立ち。  だが……そういう尾行者があろうとは、侍もしらねばお七もしらぬ。やがて、駕籠がついたのは芝の神明、宮芝居でもかかっているのか、古びたのぼりがひらひらしていた。  お七はその門前で駕籠を捨てると、神明わきの花吹雪という小意気な料理屋へ入っていった。それをみると、尾行の侍、ふところから頭巾を出しておもてをつつむと、これまたさりげないようすで、花吹雪へ入っていく。あと見送って顔見合わせたのはこちらの三人。 「親分、すると、お七はあの侍としめしあわせてここへきたんでしょうか」 「いや、そうじゃねえらしい。お七は、あの侍がつけてきたことなど、ゆめにも知らぬにちがいねえ」  そのときである。またひとり、若い男が花吹雪のなかへ入っていく。どうやら宮芝居の役者らしく、なで肩のほっそりした姿は、女のようにやさしかった。年ごろは二十前後だろう。横顔が路考《ろこう》そっくりのいい男振り。  花吹雪の女中は、その姿をみると、 「おや、琴次郎さん、お嬢さんがさきほどからお待ちかねでございますよ」  そういう声がおもてまで聞こえたから、佐七をはじめ辰と豆六、おもわず顔見合わせた。  琴次郎——それでは、あの男は役者になっていたのか。なるほど、宮芝居の役者となって、旅から旅へとまわっていれば、ゆくえがわからないのも当然だった。 「親分、野郎がたずねる琴次郎だ。踏みこんでふんじばってしまいましょうか」  辰五郎が意気込むのを、 「まあ、待て、おれにはどうもうなずけねえ」  いまの琴次郎の姿をみると、佐七はすっかり当てがはずれた。あのなよなよとしたからだで、あんな大胆な凶行が演じられようとは思えない。しかも、お兼は琴次郎にとっては母である。母殺し——いかに人は見かけによらぬとはいえ、琴次郎にそんなことができるだろうか。 「まあ、待て。もう少しようすを見ていよう」  佐七は、花吹雪の女中を呼び出した。女中は佐七の頼みをきくと、ひどく迷惑そうな顔色だったが、ほかならぬ御用の筋とあらば拒むことはできない。やむなく、三人をとおしたのは、お七琴次郎が会っているつぎの部屋。どうやら、さっきの御家人は、向こう側の座敷にいるらしい。  そんなことはもとよりしらぬお七琴次郎——。そのときお七は、琴次郎のそばに泣きくずれていた。 「琴次郎様、堪忍してください。許してください。おまえさんとの約束をほごにするわけではないけれど、父さんの頼みをきかぬわけにもいかず、わたしゃ、わたしゃ死んだ気になって、あの駒十郎と祝言します」  お七の泣きじゃくる声につづいて、琴次郎のふかいため息。 「お七さん、おまえがそういうのなら、わたしもあきらめます。はい、ふっつりとおまえとの縁は切ります。しかし、お七さん、そのまえにぜひともおまえにききたいことがある」 「はい……」 「御家人くずれの鷺坂《さぎさか》駒十郎、あの男とおまえのおとっつぁんとは、いったいどういう関係があるんだえ。おまえのおとっつぁんの武兵衛さまは、なにゆえあって、あの男のいうことならなんでもはいはいときかねばならないんだえ」  それを聞いて、こちらの三人、おもわず顔を見合わせた。お七が祝言しようという鷺坂駒十郎というのは、さっき駕籠をつけてきたあの男ではあるまいか。  武兵衛苦肉の計略   ——おきなの度胸にゃ驚きました 「琴次郎さま、それはあたしにもわかりませぬ。しかし、父さんはあの駒十郎ににらまれると、へびににらまれたかえる同然、ひとたまりもなく縮みあがってしまうんです」  お七はほっとやるせなげにため息をついた。 「いったい、それはいつごろからのことだえ」 「はい、去年の春——そうそう、おまえの父さんがゆくえ知れずになって騒いでいるとき、ひょっこりあの駒十郎がやってきて、なにやら父さんとひそひそ話をしていましたが、それからというものは、父さんはもう生きた色もなく、なんでも駒十郎のいうことをきくんです」  佐七は、はてなと首をかしげる。すると、武兵衛は駒十郎に、なにかよくよく弱いしりを握られているにちがいない。 「お七さん」  琴次郎の声がふいにあらたまった。 「おまえ、うちのとっつぁんが、お玉が池の寮で殺されていたことは聞いたろうね」 「はい、それはきのう伊十郎さんから聞きました。父さんもそれを聞くと、気を失って、きょうはもう半病人でございます」 「お七さん、殺されたのは、とっつぁんばかりじゃない。おっかさんもおなじところで殺された。わたしゃ悔しい。わたしの胸を察しておくれ」  琴次郎は涙に声をうるませて、 「お七さん、わたしゃおっかさんが殺される少し前に会ったんだよ」 「ええっ!」 「まあ、聞いておくれ。三年まえに家をとびだし、旅から旅へまわっていたわたしは、この夏のおわりに江戸へかえって、はじめてとっつぁんのことを聞いて知った。しかし、わたしにはどうしても、とっつぁんがそんな大それたことをするとは思えない。とっつぁんはなるほど酒は飲む、ばくちは打つ。しかし、そんな悪いことをするようなお人じゃない。これにはなにかわけがあるにちがいないと、おっかさんを探してみたが、これまた半年まえからゆくえ知れず……そこで、わたしはそれとなく、おまえの家に気をつけていた。すると、おまえのとっつぁんが、始終、駒十郎にゆすられているようす。これには子細のあることにちがいないと、あいつに気をつけていると、駒十郎のやつ、しじゅうお玉が池の寮へいくじゃないか」 「まあ!」  と、お七も驚いたが、隣室できいている三人も、思わずどきりとした。 「わたしはなんとなくゾッとした。虫が知らすというのか、あの寮になにかいわくがありそうで、そこでときどき女に化けては、寮のようすを探っていたのだ」  佐七は思わずハタとひざをうった。わかった。わかった。青蛙《せいあ》のおきながみたというお玉の幽霊とは琴次郎だったのだ。そう考えると、あの足跡のなぞも解ける。しのび込んでくるときは、女らしく内股《うちまた》に歩いていたが、なにかに驚いて逃げるとき、つい男の本性を出したのだ。  それはさておき、琴次郎はなおもことばをつぎ、 「あの晩もわたしはやっぱり女に化けて、お玉が池の寮へ忍んでいった。すると、ふしぎなことに、池のなかにだれやらいるようす。わたしはぎょっとして、茂みから身を乗り出したが、とたんにあいてがわたしの顔を見て、おお、おまえは琴次郎ではないかと叫んだ。わたしゃもうびっくりした。夢中で逃げ出した。あれがおっかさんとわかっていれば、逃げ出すのじゃなかったが、まさかあんなところにおっかさんがいようとは思わぬから、夢中で逃げ出したのがわたしの不幸。きけば、おっかさんはそのあとでだれかにバッサリ」  琴次郎の物語をきいていると、やっぱり、かれは下手人ではないらしい。青蛙のおきなは、どういうわけで、あんな勘違いをしたのだろう。  お七はおびえたような声で、 「おまえ、そしてその下手人に心当たりがあるかえ」 「お七さん、わたしゃひょっとしたらあの駒十郎が……」 「あれえ!」  と、お七のたまげる声、がちゃんとなにか壊れる物音。すわこそと、ふすまをけって三人がとなり座敷へおどりこむと、頭巾で顔をつつんださっきの侍が、大刀ふりかぶって琴次郎を追っかけている。  それと見るよりとっさの目つぶし、佐七が手にした徳利を投げると、ねらいはあやまたず、眉間《みけん》にあたって、侍ははっと二、三歩うしろへさがった。そこへすかさず、付け入った三人が、 「御用だ、御用だ!」  手練の早なわで、手早くあいてをとりおさえると、いきなり頭巾をもぎとったが、その顔を見たとたん、 「あっ、おまえは鷺坂駒十郎……」  お七と琴次郎は真っ青になって息をのんでいた。  これで二年越しに世間を騒がせた釜屋の千両箱事件も見事落着したのである。  鎌五郎を殺したのは、果たして駒十郎だった。お兼をあやめ、青蛙に手を負わせたのも、おなじくかれだった。  放蕩《ほうとう》無頼の駒十郎は、去年釜屋から駒止弁天へ千両箱を寄進するといううわさをきくと、それを盗み出すつもりで駒止弁天へしのび込んだ。ところが、驚いたことには、ひと足さきに強盗がしのび込み、千両箱をかつぎ出した。それをみると、駒十郎はこっそりあとをつけて、やってきたのがお玉が池、釜屋の寮だった。  駒十郎はそこでばっさり強盗を殺したが、意外にもその強盗は鎌五郎だった。しかし、さらに意外なことには、千両箱のなかが石やかわらばかりで、小判などいちまいもなかったことである。  駒十郎は腹立ちまぎれに、死体と千両箱と御神鏡を池の中へ沈めてしまったが、それから二、三日たつと、ずうずうしくも釜屋へ出向いて、ぎゃくに武兵衛を脅迫しはじめたのである。 「はい、わたしがあの千両箱に石やかわらを詰めておいたのは、けっして金を惜しんだからではございませぬ」  のちになって武兵衛は涙ながらに物語った。 「あのときどうしても、千両という金の工面がつかなかったのでございます。でも、もうひと月もすれば、大坂《おおさか》から三千両という為替《かわせ》が入ります。それまで待っていただきたいと。駒止弁天の堂守へお願いしたのでございますけれど、どうしてもお聞き入れくださいません。すぐ千両を寄進しなければ、弁天様においのりして、お七の命を縮めると……」  弁天堂の堂守というやつも、欲の深いやつだった。これにやいやいせき立てられ、困《こう》じはてた武兵衛が、ついそのことをうちあけたのが出入りの鎌五郎。  すると、日ごろから大恩をうけている鎌五郎が、さっそく一計を考え出した。石やかわらをつめた千両箱を寄進する。そして、すぐそのあとで盗み出す。そうしておいて、後日金が入ったさい、改めて寄進すればよいではないかと、じぶんから強盗の役まで買って出たのが不運のもとだった。  武兵衛もうすうす駒十郎が鎌五郎を殺したらしいことに気付いていたが、それだけにあいてが恐ろしかった。なにをしでかすかしれぬと思えば、訴人などとは思いもよらなかった。それに、石やかわらの千両箱で世間をごまかしたという弱みもあれば、いよいよあいてのいうままになるよりほかに道はなかったのである。  こういう恐ろしいことがおこったのも、もとはといえばじぶんのあやまちから、と、一件落着ののち、武兵衛は頭を丸めて、釜屋の店を娘のお七と婿に譲って隠居した。婿というのは、いうまでもなく琴次郎である。  ふたりは筒井筒、振り分け髪の幼友達だったが、琴次郎が旅からかえって、釜屋の内情をさぐっているうちに、いつしか恋に落ちていたのだ。  さて、これで一件ことごとく落着したが、最後に青蛙のおきなである。  いちじは門弟たちを心配させたが、その後、おいおいよくなって、秋のおわりには寝床のうえに起き直れるようになったが、そのおきなの話によると……。 「あの晩、わしは離れ座敷で、俳句を書きつけていたんだが、すると庭のほうでただならぬお芳の声」  お芳の声は、あっ、おまえは琴次郎じゃないかというのだった。だから、それからすぐに血刀さげておどりこんできた駒十郎を、青蛙のおきなはてっきり琴次郎だと思ったのである。 「なるほど、それで間違いのもとはわかりましたが、しかし、よくあれだけのなぞを書き残すひまがありましたねえ」  佐七が感心すると、青蛙はわらって、 「なにね、ちょうどそのとき、わしは連句を書いていたんだ。そこで駒十郎——そのときは琴次郎だとばかり思っていたのだが——に向って、わしも俳諧師だ。しかも、この一巻は畢生《ひっせい》の仕事と魂をうちこんでいる。あと五、六句だから、どうぞそれを書き終わるまで待ってくれというと、あいつも風流のみちはいくらか心得ているとみえて、快く承諾してくれたのさ。そこでああいうなぞ句を作ったのだが、おまえさんだからよかったよ。ほかの人間なら、あやうく琴次郎をふん縛るところだったねえ」  青蛙のおきなは口をきわめて佐七を賞賛したが、佐七はそれよりおきなの度胸のよさに舌を巻いて敬服したものである。     若衆かつら  師走の赤ねこ   ——あれえッ、玉が……玉が 「やあ、降るわ、ふるわ、よくふるなあ、親分、これゃア、こんやはうんとつもりますぜ」 「雪は鵞毛《がもう》ににてとんで散乱しイやな。人はカクショウをきて徘徊《はいかい》す……ちゅうわけやがな」 「ちっ、豆六がまたお株を出してやアがら」 「豆六、カクショウってなんのことだえ」 「あれ、親分、あんた、カクショウをご存じやおまへんのん」 「ああ、あいにくな。おいら若いじぶんから、道楽にうき身をやつしていたもんだから、おめえみたいにガクがねえのよ。ひとつご教示をねがいてえな、そのカクショウというのをよ」 「まあ、まあ、よろしおまっしゃないか。またこんど……と」 「あれ、豆六兄い、おまえさん、いやに出しおしみをなさるじゃねえか。親分がせっかくああおっしゃるんだ。それに、おいらもしっておきてえからよ、ひとつ教えてくんねえな、そのカクショウというのをよ」 「そのカクショウというのんは……やな」 「あいよ、そのカクショウというのはえ」 「あの、その、あの、その……ハ、ハ、ハックション」 「ああ、わかった、豆六」  佐七はパチンと指を鳴らして、 「それゃこうじゃねえのか。雪は鵞毛ににてとんで散乱しだな、豆六さんはハクションをして、立ちて徘徊す……」 「わっ、こら、もうえらい恥をカクショウや」 「ざまアみろ、わけもわからねえくせに、しったかぶりをしやアがって……だけど、親分」 「なんだ」 「そのカクショウってえの、いってえなんのことなんです。後学のために、教えておいてくださいよ」 「ところが、おいらもしらねえ。まあ、日本橋のおじさんに聞いてきなだ」  そこは不忍池の新土手のほとり、俗に根津新道といわれるところ。  根津のほうから三枚橋へむかって、ちょうちんぶらぶら、傘をさしてやってきたのは、いわずとしれた人形佐七と辰五郎と、いまおひとりは豆六さんである。  きょうは師走の五日、いまの暦でいえば正月なかばだが、じっさい、きんちゃくの辰のいうとおり、降るわ、ふるわである。  大粒のぼたん雪がまんじともえと降りみだれて、上野のお山も不忍池の弁天堂も、まっしろなカーテンのなかに塗りこめられて、さくさくと、三人の雪を踏みくずす音のほか、あたりには闃《げき》として声もない。  時刻は夜の五つ半(九時)。 「ねえ、親分、こう冷えこんだんじゃたまりません。池の端仲町へ出たら、どっかでいっぱい、なあ、豆六」 「兄い、なにもそないに催促することあらへんがな。そこはうちの親分のこっちゃ、わてらがとやかくいわんかて、ちゃあんと心得てくれはりまんがな、親分、そうだっしゃろ」 「なにを心得てくれてはるんだえ、豆六」 「あれ、そないにしらばくれたてあきまへんで。酒なくてなんのおのれが桜かな……やなかった、雪見かなちゅうわけだすがな」 「豆六、ふざけちゃあいけねえ。なにもわれわれ、雪見としゃれこんでるんじゃねえぜ。この年の暮れにあたって、なにかかわったことはねえかと……」  と、佐七のそのことばもおわらぬうちに、雪のなかからきこえてきたのは、 「人殺しイ……だれかきてえ……」  と、古いたとえだが、絹をさくような女の声が、鋭くあたりのやみをつんざいた。  三人はぎょっとして、傘をかたむけたまま、雪のなかに立ちすくむと、 「親分、いまのは……」  と、息をのんで、たがいに顔を見合わせているところへ、またしても降りしきる雪のなかから、 「人殺しい……人殺しい……だれかきてえ……」  と、女の悲鳴だ、 「親分、あっちゃや、あっちゃや」 「よし、いけ!」  と、雪のなかを三人が声のするほうへ走っていくと、むこうにみえる枝折り戸から、雪明りのする横道へ、ぱっとくろい影がとびだしてきた。  くろい影は二、三歩こちらへきかかったが、三人の足音に気がつくと、身をひるがえして、こんどはむこうのほうへいちもくさん。いや、その逃げあしの速いこと。 「それ、辰、豆六!」 「おっと、がってんだ。くせ者、待てえ!」  くせ者は辰と豆六にまかせておいて、佐七があけっぴろげた枝折り戸のなかをうかがっていると、いま三人のやってきた道から、傘をつぼめた女がひとり、ちょうちんをぶらさげてやってきた。  女は枝折り戸のなかへはいろうとして、そこに立っている佐七に気がつくと、ぎょっとしたようにたじろいだ。  もうとっくに五十の坂をこえたばあさんで、縞《しま》のちゃんちゃんこを寒そうにきて、くろいお高祖頭巾で顔をつつんでいる。  一升徳利をかかえているところをみると、寝酒を買いにいったのだろう。  佐七はずいと、その顔にちょうちんをさしむけながら、 「おまえさんはこの家のものかね」 「はい」  と、ばあさんは佐七の風体から、御用聞きと察したのか、 「親分さん、なにかございましたのでしょうか」  と、おびえたような声音である。 「ふむ、ちょっと……おまえさんはこのうちの……」 「はい、召し使いでございます」 「名前は……」 「お倉と申します」 「それで、ご主人というのは?」 「お滝さまとおっしゃって……」  と、老婆のお倉はことばをにごす。 「ご亭主や子どもさんは?」 「いいえ、いらっしゃいません。おひとりでございます」  佐七は雪明りのなかに家のたたずまいを見なおして、 「それじゃお囲い者かえ」 「いいえ、そうじゃございません。どこからかお仕送りがございますそうで、気楽におくらしでございます」 「すると、この家にはお滝さんと、おまえさんのふたりきりかえ」 「はい、さようでございます。でも、親分さん、ほんとになにかございましたので?」  お倉が不安そうにまゆをひそめるところへ、雪だらけになった辰と豆六が、面目なさそうな顔をしてかえってきた。 「親分、すみません。湯島の切り通しまで追いつめたんですが、そこでとうとう見失ってしまいました」 「もうすこしというとこまで追いつめたんやが、わてが雪に滑ってころんだうえへ、兄いが折りかさなって倒れてきたもんで、とうとう逃がしてしまいました。わての不調法だすさかい、どうぞ堪忍しておくれやす」 「いや、この大雪のなかじゃあしようがねえ。しかし、どういう風体だったえ」 「へえ、それが、宗十郎頭巾に長合羽のうしろすがたと、ただそれしかわからねえんですが、小つくりの男だったなあ、豆六」 「へえ、さいだす、さいだす。もう少しちゅうところで転んでしもて、えらいすみまへん」 「それで、親分、こっちのほうは?」 「いや、これからはいってみようと思っているところだが……こちらがばあやさんだ」  と、そこでお倉に、てみじかにことのいきさつを語ってきかせると、お倉は青くなってふるえあがった。 「親分さん、それじゃいっしょにきてください。わたしひとりじゃ怖うございます」 「おお、もちろん、おれもいっしょにいこう」  ばあやのあとから枝折り戸をはいると、なかはちょっとした壷庭《つぼにわ》になっていて、こぢんまりとはしているが、なかなか小意気なつくりである。  見ると、むこうに厠《かわや》が出張っていて、その外に手水鉢《ちょうずばち》、手水鉢のまえの雨戸がいちまい開いている。  ぼたん雪はいよいよまっ白に舞いくるって、目もあけていられぬくらいである。これでは足跡があったとしても、すぐ埋まってしまうだろう。  ばあやは縁側のそばまでくると、 「おかみさん、おかみさん」  と、小声で呼んでみたが返事はない。 「ばあやさん、ここがおかみさんのお寝間かえ」 「はい」 「とにかく、なかへはいってみよう」  ばあやにつづいて三人が、開いた雨戸のすきから縁側へあがろうとしたときだ。 「あれえッ、玉が……玉が」  と、たまぎるようなお倉のさけびに、佐七をはじめ辰と豆六は、ぎょっとしてお倉の指さすほうをみた。  寝間にはほんのりと、行灯《あんどん》にあかりがついているが、その障子のうちがわから、のっそりと出てきたのは一匹のねこ。  みれば、全身真っ赤に血をあびて、ぶるぶるっと身ぶるいしたときには、赤いしずくが四方八方にとび散った。  奇々怪々な死体   ——生きてるひとのほうがよほど怖い  さすがに佐七も息をのんだが、すぐ縁側から座敷へとびこむと、座敷の入り口にどっぷりと赤い血だまりができている。  玉がその血だまりのなかで、ふざけたのだろう。  そこを中心として、ぼたんの花を散らしたように、赤い足跡が点々としてついているのだ。  さて、座敷のなかへ目を転じると、こたつにこんもりふくらんだ赤い絹夜具がそうとう乱れて、そのうえに、長襦袢《ながじゅばん》の女がひとり。髷《まげ》の根もガクガクにゆるんで倒れている。  まくらもとには背のひくい書見|行灯《あんどん》の灯がまたたいていて、そのそばになまめかしい人情本と、さくら紙がひとたばね。 「あれがお滝さんかえ」 「はい、あの、さようで……」  お倉はガチガチ歯の根もあわない。  お滝というのは、三十五、六、かくべつべっぴんというのではないが、むっちりと肉付きのよい女で、長襦袢のうえに、縞《しま》のかいまきをはおっている。  乱れた布団のうえにまくらがふたつころんでいるところをみると、男といっしょに寝ていたらしいが、その男と痴話げんかにでもなったのだろうか。  佐七はそっと鼻に手をあてがってみたが、むろんすでに息はない。  しかし、からだがまだ冷えきっていないところをみると、絶息してからまだまがないらしい。  おそらく、さっきの悲鳴は、この女だったのだろう。 「辰、豆六、からだをあらためてみろ。どこをやられているんだ」 「へえ」  ふたりはお滝のからだをあらためてみたが、おかしなことには、どこにも傷は見当たらない。 「親分、みょうですね。どこにも傷はありませんぜ」 「うしろからやられたんじゃねえか。ちょっと抱きおこしてみろ」 「へえ」  ふたりは女の死体を抱きおこしたが、しかし、背中にも傷はない。  だいいち、けがをしていたら、夜具のどこかに血がついていなければならぬはずだが、それもない。 「親分、ひょっとしたら毒をのまされて、血を吐きよったんとちがいまっしゃろか」  それだとすると、口のほとりに多少なりとも血痕《けっこん》がついていなければならぬはずだが、それもない。 「へんですねえ、親分、それじゃア、あの血は下手人の血でしょうかねえ」 「ふむ、そういうことになるな。辰、豆六、とにかくそこらをさがしてみろ。なにか証拠になるような品はねえか」  それから、そばでふるえているお倉にむかって、 「お倉さん、おまえすぐにこのことを自身番へしらせてきてくれ。それから、自身番へいったら、長者町の良庵《りょうあん》先生のところへ、番太郎でも走らせるようにって」 「は、はい。それから、親分さん」 「なんだえ」 「黒門町の和泉屋さんに、わたしの孫娘が奉公しておりますんですが、そこへいって孫を借りてきてもよろしゅうございますか。わたしひとりでは、怖うございますから」 「ああ、そうか。それはおまえのいいようにするがいい」  お倉が出ていったあとで、佐七はそっと長襦袢のすそをめくってみた。むごいようだが、これもお役目とあらばいたしかたがない。 「親分、これゃ……」 「男とお楽しみがあったんだんな」  辰と豆六は息をのむ。  いちおうしまつはしているが、男ののこしていった移り香は、歴然とそこにうかがわれる。髷《まげ》の根のゆるみかたからみると、そうとうはげしい絡み合いが展開されたものと思われた。  佐七はすぐに長襦袢のまえをあわせると、 「辰、豆六、とにかくそこらを探してみろ」 「へえ」  まもなく、辰と豆六が、縁側とくつ脱ぎのあいだから、かみそりを一丁見つけだした。  かみそりの刃は、どっぷりと血を吸っている。 「親分、これはお滝のものでしょうね。男は刀をさしていたようです。かみそりをもってやってくるはずがございませんから」 「よし、それじゃ鏡台をしらべてみろ」  鏡台は座敷のすみにあったが、その鏡台の引き出しがひとつあけっぱなしになっていて、かみそりはどこにも見当たらなかった。 「すると、こういうことになるんですね。男とお楽しみがあったのち、きゅうになにかいさかいが起こって、お滝がかみそりをもちだして切りつけた……」 「そや、そや、それでこうして血が流れたが、そこで男がおこってお滝を殺した……」 「だけど、豆六、男はどういうふうにしてお滝を殺したんだえ。お滝のからだにはどこにも傷はなし、のどをしめられたような跡もねえ」 「ほんまに、親分、こら、まかふしぎだんなあ」  豆六は首をかしげたが、そこへ自身番からどやどやと町役人が駆けつけた。 「どうも、親分、この年の瀬に、とんだことができたそうですねえ。でも、おまえさんがきてくだすったので助かります」 「ええ、ちょうどいいところへ通りあわせたもんですから……ときに、このお滝というのはどういう女です。ばあやにきくと、お囲い者でもねえというんですが……」 「へえ、それはちょっと、近所でもなぞになっていたんです。どこからか仕送りがあるという話で、のんきにぶらぶら、芝居見物ぐらいが楽しみで、だんながあるというのではなし、そうかといって、情夫《いろ》もなし、まあ、抱いて寝るといえば、玉というねこぐらい……」 「情夫もなし……」  と、佐七はちょっと目を光らせて、 「しかし、だんな、お滝はこんや、男と寝ていた形跡があるんですよ」 「ほんとですか」  町役人もおどろいて、 「この家へ、あきんどはべつとして、男が出入りするということは、いままでついぞ聞いたことがございません。それについて、妙なうわさがあるんです」 「妙なうわさというと……?」 「ここのおかみさん、外へ出るときはかならず頭巾で顔をつつんでいるんです。それは、夏でも、冬でもそうなんです」 「ひとに顔をみられちゃいけねえことでもあるのかな」 「ええ、そうとしか思えません。だから、きっとあのおかみさん、だれかひとをおそれてるんだろうと、うわさをしていたんです」 「それで、つきあいは……?」 「とんでもない。つきあいなんてひとりもない。ほんにひとりぽっちで、ばあやと玉というねこだけをあいてに暮らしていたんです」  佐七は辰や豆六と顔見合わせた。  お滝というそこに死んでいるその女、なにかよほど大きな秘密を抱いていたにちがいない。  そこへ長者町から良庵先生が駆けつけてきて、くわしくお滝のからだをしらべたが、さすがの先生も、いたずらに小首をかしげるばかり。 「どうもわからんね。毒を飲まされているようでもなし、といって、絞め殺されたようでもなし……」 「でも、先生、死んでることは死んでるんでしょう」  辰がそばから口を出すと、 「当たりめえよ。息がとまって、脈があがって、それで生きてれゃア化け物だあな」  良庵先生もはっきり、死因のわからないのがしゃくらしく、ぶつぶつ小言をいっていたが、そこへお倉が、お丸というまだ十四、五の小娘をつれてかえってきた。  お丸には両親がなく、祖母と孫のふたりきり、そのたよりない境遇を、べつべつに奉公して、暮らしているのである。  お倉も町役人のことばを裏書きして、お滝に情夫《いろ》のあったなどとは考えられないと答える。  ただし、こんやお滝が男と寝た形跡があるとすれば、きっと表から迎えいれたのだろう。  じぶんの居間は、鈎《かぎ》の手になった裏側だから、気がつかなかったにちがいない。といって、そんなことがたびかさなれば、じぶんにも気がついたはずだから、いままでにそんなことがあったとは思えない。  と、お倉の答えはこうだった。  そこで、佐七がかみそりを出してみせると、それは間違いもなく、お滝のものであると答えた。  こうして、この一件、なにがなにやらわからぬうちに夜がふけて、佐七をはじめ一同は、お倉とお丸にあとをまかせて、引きあげることになったが、かえりぎわに豆六が、 「お丸ちゃん、おまえ怖いことあらへんか。死人とおんなじ家に寝て……」  とからかうと、お丸はりこうそうな目をくりくりさせて、 「怖いことなんかないわ。だって、死んでるんですもの。生きてるひとのほうがよっぽど怖いわよ」  と答えたのは、あっぱれご名答というべきであった。  ふたつ鬘《かつら》   ——お滝の前身は女役者かお狂言師  雪はひと晩ふりつづいて、翌朝、佐七が起きだしたころ、やっと西の空から晴れはじめた。  晴れはじめたかと思うと、またたくまに、日本晴れの上天気になった。 「親分、つもったとはいえ、どうせゆうべのぼたん雪、解けだしたらはようがすから、飯を食ったら池の端へいってみようじゃありませんか。雪のしたから、なにかでてくるかもしれません」 「ああ、そうしよう」  といってるところへ、あわただしく表の格子をたたく音がして、 「親分、親分、ここあけてください。わたしお丸よ。たいへんなことができたから、しらせにきたの」  威勢のいいお丸の声に、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずぎょっと顔見合わせた。 「お粂、格子をあけてやれ」 「あい」  と、お粂が立つとまもなく、ころげるようにはいってきたのはお丸である。  ほっぺをあんずのような色にそめ、息はずませて、 「親分、たいへんよ、たいへんよ。死人がぬすまれたのよ」 「な、な、なんだって……?」  佐七をはじめ辰と豆六、おもわず異口同音にさけんで、腰をうかした。 「し、し、死体をぬすまれたって?」 「ええ、そうなの。わたしもびっくりしてしまって……おばあさん、腰をぬかして、動けなくなってしまったのよ」  お丸は目玉をくりくりさせて、いかにおどろいたかということを表現してみせる。  怜悧《れいり》も怜悧だが、なかなかきりょうのよい娘だ。 「それがいつわかったんだ。けさ目がさめてみたら、死体がなかったのか」 「いいえ、そうじゃないの。あたし、どろぼうにつかまったの。あんな怖いことなかったわ」 「どろぼうにつかまったあ?」  辰はおもわず目をみはる。 「どろぼうのやつ、死体をかついでたんかいな」 「いいえ、そうじゃないの。死人はほかのひとがかついでいったのか、それとも、そいつがいったんかつぎ出して、なにか忘れものでもして引き返したのか、死人はかついでなかったの」 「それでいったい、どんな男だったんだ」 「いいえ、それがわからないの。真っ暗がりのなかだったんですもの。でも、お侍だったわね、刀を二本さしていたから」  お丸の話によるとこうである。  けさの明け方、お丸は小用に起きた。  お滝の家には厠《かわや》がふたつあって、召し使いの使用する厠は座敷から袖垣《そでがき》によってかくされているのだが、用を足しおわってお丸が、ふと厠の窓からそとをみると、座敷とおぼしいあたりの欄間から、あかりの色がもれている。  しかも、そのあかりが動いているのをみて、お丸はおもわずぎょっとした。  だれかが、座敷をあるいているのだ。  しかも、その座敷には死人がねている……お丸はそのことを祖母のお倉にしらせようかと思った。しかし、お倉のおくびょうなことをよくしっているお丸は思いなおした。それに、お倉は恐怖をまぎらすために、深酒をしてねているのだ。  お丸は度胸のいい娘である。  厠をでると、抜き足差し足、縁側づたいに座敷へいったが、そのとたん、座敷のあかりがふっと消えて、むこうの障子のひらく音がした。  その音をめあてに、 「どろぼう!」  とさけんで、お丸はあいてにとびついたが、そのとたん、二本の刀のこじりが手にさわり、どんと肩をおされて、お丸はそこにしりもちついた。  そのあいだに、くせ者は玄関から外へとびだして……お丸にももう、それを追う勇気はなかったのである。  くせ者の足音が雪のなかに消えていくのをききすまして、お丸はやっと気をとりなおし、手さぐりで行灯《あんどん》に灯をいれたが、そこで二度びっくり。すなわち、死体がなかったのである。 「わたし、それですぐに、おばあさんを起こして話をしたら、おばあさん、腰をぬかして……」 「よし、それじゃすぐにでかけよう。それにしても、お丸、おまえはたいした度胸だなあ」  と、それからすぐに三人は、お丸といっしょにお玉が池をでたが、さっき辰もいったとおり、ぼたん雪の解けやすく、着ぶくれしたように、雪のつもった屋根から、まるで滝のように雪解け水が落ちている。  往来はもうどろんこだ。  池の端のお滝のうちへつくと、町役人にとりかこまれて、お倉があおい顔をしておろおろしている。 「ああ、親分、またとんだことがございまして……いったい、死体をぬすんで、どうするんでしょうねえ」 「ひょっとすると、死人の正体を、ひとにしられたくないやつがいるんじゃないでしょうかねえ。それで、死体をぬすんでいった……」 「いや、おおきにそうかもしれません。きのうもいったとおり、外へでるとき、いつも頭巾で顔をかくしていたくらいですからね」  佐七が座敷へはいると、座敷の押し入れがあけっぱなしになっていて、行李《こうり》をかきまわした跡がある。 「お倉、あの押し入れをあけたのはおまえかえ」 「とんでもございません。あれはどろぼうがかきまわしていったんです」 「それで、なにか紛失しているものは……?」 「はい、おかみさんはいつもお金を手文庫にしまっておいでなさいましたが、その手文庫がみえません」 「その手文庫は、いつもどこに……?」 「はい、そこにある用箪笥《ようだんす》の袋戸だなに……」  その袋戸だなには、かぎがかかるようになっているが、それがあけっぱなしになっている。  佐七はどろぼうのかきまわしていった行李のなかをのぞいてみたが、おもわずあっと息をのんだ。  そこには鼓、舞い扇、それに常人にはちょっと着られぬほど、はでな振りそでが三かさねほど。ほかに首桶《くびおけ》ほどの桐《きり》の箱がはいっているので、なにげなく佐七がひらいてみて、おもわずあっと二度びっくり。  なかからでてきたのは、文金高島田の鬘《かつら》である。 「親分!」  辰も目をまるくして、 「それじゃ、お滝というのは女役者か、お狂言師だったんじゃアありませんか……」 「ふうむ、そうかもしれねえ。お倉さん、おまえこの行李のなかを見たことがあるかえ」 「いいえ、あの、その行李はいつも綱がかけてあって、綱の結びめには、げんじゅうに封印がしてございましたから……」  お倉のことばにいつわりのない証拠には、封印をしたままからげてあったその綱が、刃物でスッパリ切り落とされているのである。  佐七はその行李から目をはなすと、 「辰、豆六、きのうくせ者がにげだした雨戸から、枝折り戸までのあいだには、なにか落ちてやアしないか、雪のなかをしらべてみろ」 「へえ、へえ」  日本晴れの上天気に、庭につもった雪も小気味よいほど解けていく。  佐七は縁側にたって、辰と豆六のはたらきをみていたが、 「おお、豆六、そこの手水鉢《ちょうずばち》の根元からのぞいている黒いものは、いったいなんだえ」 「へえ、これだっか」  と、豆六が雪のなかからとりあげて、 「わっ、親分、これも鬘《かつら》や、若衆髷《わかしゅまげ》の鬘だっせ」 「なに、鬘だと? ちょっと見せろ」  佐七が手にとってみると、なるほど、それは若衆髷の鬘だったが、お滝の行李にある高島田の鬘とちがって、うんとそまつな、いわゆるオデデコ芝居と称する、見世物式の芝居につかう鬘だった。  しかも、鬘のうらがわに、長い髪の毛が二、三本ひっかかって、からみついているのである。  佐七はしばらく無言のまま、その鬘を手にとって、と見こう見、子細らしく調べていたが、やがて辰と豆六をふりかえり、 「辰、豆六、ゆうべのくせ者は、小づくりな男だといったなあ」  と、なにやらうれしそうである。  江戸時代には、公許の芝居は三軒しかなかったが、それいがいにも、あちこちの神社仏閣の境内に、葭簀《よしず》がけの小芝居があり、それを宮芝居とか、宮地芝居とかよんでいた。  そのほか、あちこちの盛り場にも小芝居があり、公許の三座では、女役者はぜったいに許されなかったが、小芝居には女役者の一座もあった。  ばんじが格式にしばられることのおおい江戸時代では、それらの小芝居では、引き幕さえもゆるされず、鬘なども本式のものを使用することはご法度で、いわゆるオデデコ鬘というのでまにあわせていた。  豆六の見つけたのはオデデコ鬘であった。  しかも、鬘のうらにからみついている長い二、三本の女の髪の毛。  佐七がうれしがるのもむりはない。  ご落胤《らくいん》探し   ——お滝さんにお墨付きを盗まれて  上野の山下に、水木|歌仙《かせん》という女役者の一座がかかっている。  むろん、菰《こも》張りの芝居小屋だが、座頭の歌仙の美貌と芸達者で、そうとう人気をよんでいる。  歌仙というのは、佐七も二、三度会って、顔見知りのあいだであった。  歌仙には千代丸という十二になる男の子があり、先代萩《せんだいはぎ》の千松などやると、子柄がいいのでうってつけだが、うそかほんとかこの千代丸は、さるご大身のお旗本のご落胤《らくいん》だというひょうばんがある。  佐七もいつかそれについて歌仙にじかにたずねてみたが、歌仙はたださびしく笑うだけで、否定も肯定もしなかった。  池の端のお滝の家をでた佐七は、とちゅうで昼飯をしたためて、歌仙の小屋へまわってみたが、むろんこの大雪で芝居は休み。  そこで、木戸番にところをきいて、辰や豆六といっしょにそちらへむかった。  歌仙は車坂のとある路地のなかに、千代丸と、ひとりの弟子と、三人で住んでいるのである。  車坂できくとすぐわかったので、 「師匠、うちかえ」  と、格子をひらくと、弟子の梅代というのが顔をだして、 「あら、お玉が池の親分さん!」  と、そういう声におくの部屋から、 「えっ、お玉が池の親分さんだって?」  と、歌仙の声がきこえたが、なんだかすこし、うろたえているようである。 「ああ、師匠、うちにいたのか。それはちょうどさいわいだ。ちょっとおまえに話したいことがあるんだが……」 「はい、あの、少々お待ちくださいまし、とりちらかしておりますから……」  歌仙の声は、あいかわらずうわずっている。  はんぶん開いた障子のあいだから、黒紋付にはかまをはいて、ちょうど芝居の千松のようななりをした男の子が、ふしぎそうに顔をだす。 「ああ、千代丸、おまえもうちにいたのか、あいかわらずかわいいな」  佐七が声をかけると、千代丸はにっこりわらって、両手をついてお辞儀をする。  千代丸は女役者の子ににあわず、気品があってよいきりょうだ。歌仙はこの子にいつも、千松のような服装をさせておくのである。  しばらくして、歌仙がやっと顔をだした。  おしろいやけこそしているが、まゆをおとした面長な顔立ちは、目鼻立ちがくっきりとして、ほれぼれするほどうつくしい。 「お待たせいたしました。おや、辰つぁんも豆さんもごいっしょでしたの」  と、歌仙はちょっと顔色をくもらせて、 「さあ、どうぞおあがりくださいませ」 「ああ、そう、それじゃ梅代、おまえすまねえが、千代丸をつれて、ちょっと座をはずしてくれないか。ああ、ちょっとこれを……」  と、いくらか紙にひねって差し出すと、 「お師匠さん……?」  と、梅代が顔色をうかがうのへ、 「ありがたくちょうだいして、親分さんのおっしゃるとおりにしておくれ」  歌仙の顔色はますます悪くなる。  やがて、千代丸をひきつれてでていく梅代を見送って、佐七は歌仙に招じられるままに、長火ばちのまえへあがりこんだ。  辰と豆六はあがりかまちに腰をおろして、腰からタバコ入れをぬく。  歌仙はその三人に茶をくんでおいて、 「親分さん、それでわたしに御用とおっしゃるのは……?」 「ふむ、おまえにちょっと見てもらいたいものがあるんだ。これはおまえんところの鬘《かつら》じゃアねえか」  佐七がふろしきづつみをといて、若衆鬘をさしだすと、歌仙ははっと目をみはったが、すぐその場に両手をついて、 「恐れいりましてございます」  と、ホロリとひざに涙をおとす。 「それじゃ、ゆうべ男の姿でお滝のうちからとび出したのは、おまえだったんだな」 「はい……」 「おまえがお滝を殺したのか」 「とんでもございません。お滝さんは発作を起こして、お亡くなりなすったんです。わたしこそお滝さんに、あやうく殺されるところでした。これをごらんくださいまし」  歌仙が左のそでをまくってみせると、腕にまいたさらしのうえに、じっとりと血がにじんでいて、いたいたしかった。  そうとうの深手のようだ。 「おまえはしかし、どうして男の姿やなんかでお滝のうちへ出向いていったんだ」 「はい、それは……お滝さんにある品を、返していただこうと思いまして……」 「ある品とは……」 「お墨付きでございます。わたしの腹からうまれる子が、じぶんの胤《たね》にちがいないと、お殿様がお書きくださいました……」  そこまでいうと、歌仙は指で目頭をおさえる。  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。 「それじゃ、師匠、千代丸がご落胤だといううわさは、やっぱりほんとうだったのか」 「はい」  そこで歌仙が、名前だけははばからせていただきますと前置きをしておいて、涙のうちに語ったところによるとこうである。  歌仙もお滝も、もとは狂言師だった。  お狂言師とは、むやみに芝居などへでむくことのできぬ大名やご大身の旗本のおくへでむいて、芝居や踊りをみせる職業で、お女中ばかりのなかへ出るのだから、これは女にかぎられていた。  ところが、こうしてあちこちのお屋敷へでむいているうちに、歌仙のきりょうが目にとまって、さる大身のお旗本の手がついた。  そこで、そのままご愛妾《あいしょう》としてお屋敷にとめおかれたが、やがて懐妊とわかると、奥方の嫉妬が猛烈をきわめた。  そこで、もしものことがあってはならぬと、後日の証拠のお墨付きと、菊一文字の短刀をいただいて、宿下がりをしたのちに産まれたのが千代丸である。 「そのお墨付きを、お滝さんにぬすまれたのでございます」 「しかし、お滝がなんだって……?」 「奥方さまにたのまれて……」  歌仙はこらえかねたように、そで口を目にあてる。 「なるほど、しかし、そのお墨付きを取りもどしにいったというが、お墨付きはとっくのむかしに奥方さまに……」 「いいえ、お滝さんはにせもののお墨付きを奥方さまにおしつけておいて、本物はじぶんの身につけ、奥方さまからもわたしからも、身をかくしたのでございます。それがいまから十年ほどまえのこと……」  さて、奥方様には和子様《わこさま》がひとりいられたが、それが先年ご他界された。  しかも、殿様が目下ご重態とあって、にわかに千代丸が必要となってきたのである。  江戸時代には、武家の家督はめんどうだったもので、主人病気のうちに跡目をさだめて、ご公儀へおとどけしておかなければ、お家断絶というさだめになっていた。  つまり、跡目相続人がきまってなくて、当主が死亡したさいは、家禄《かろく》没収ということになっていた。  だから、実子のあるぶんには問題はないが、そうでないと、やっかいなことがあったもので、主人病気大切の際におよんで、にわかに血縁をさがすのもあり、喪を秘して、きゅうに養子を迎えるということもある。  そこにいろいろ悲喜劇が起こったもので、きのうまで長屋に育ったご落胤《らくいん》が、きょうはご大身の相続人に成り上がったなどというようなれいも、ないことはなかった。  千代丸の場合もそれなのだが、しかし、あくまで嫉妬ぶかい奥方は、千代丸をきらって、他から養子を迎えようと画策している。  しかし、家中一統の意見としては、せっかく殿のお血筋のかたがいらっしゃるのにと、千代丸説にかたむいているのだが、困ったことには、お墨付きがないことである。  雪ののぞき見   ——こたつ布団がはげしく揺れ動いて  歌仙は、わが子が世に出るか、出ないかのせとぎわだから、やっきとなって、お滝のゆくえをさがしていたが、はからずもきのう往来で、それらしい姿を見かけたので、そっとあとをつけていった。  そして、池の端の家をつきとめておいて、夜にはいって若衆すがたに身をやつし、忍んでいったのである。 「しかし、表から名乗って会うわけにはまいりません。そんなことをすれば、追っ払われてしまうにきまっています。そこで、なんとかして忍びこむくふうはないものかと、家のまわりを歩きまわっているうちに……」  よいあんばいに、お倉がうらの枝折り戸から、寝酒を買いに出ていったのである。  しめたとばかりに、歌仙はなかへしのびこんだが、かってわからぬ他人の家、しかも、どこもかしこもぴったり雨戸がとざされて、お倉がどこから出てきたのか、その見当さえもつきかねた。  歌仙は欄間をもれる光をたよりに、座敷のそとへしのびよったが、すると、なかから聞こえてきたのが、男と女のむつごとの声。 「ああ、そうか。師匠、それじゃ、おまえよりさきに、だれか男が忍んでいたのか」  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。 「はい……」  歌仙はぽっとまぶたをそめたが、それにはそれなりのわけがある。  歌仙はなにも卑しい好きごころからのぞき見をしたわけではない。ただひたすら、わが子のためにお墨付きを取りもどしたいいっしんである。そのためには、お墨付きをかくしているお滝に男があるとすれば、どんな男かたしかめておきたかったのである。  お滝の住まいは凝ったつくりだが、御殿のようなわけにはいかない。雨戸のあちこちに、透き間もあれば節穴もある。歌仙は手ごろな節穴を見つけて目を押しあてた。  雨戸のなかは、三尺の縁側のむこうに障子がしまっており、障子にはなかから明かりがさしている。  ところが、この障子というのが、下から八寸ほどの低い腰板が打ってあるだけで、あとは全部紙ばりになっているうえに、寝ながら本でも読むつもりで、背のひくい書見|行灯《あんどん》でもおいてあるらしく、しかもその光源が、障子と平行にしいた寝床のむこうにあるとみえ、低い腰板の障子のうえに、こんもりとしたこたつのふくらみが黒い影となって映っていた。  歌仙が節穴に目をおしあてたとき、そのこたつにかけた布団がはげしく震動しているばかりか、女のうえに身をふせた男が、ときどき居ずまいをなおすとみえ、かめの甲のようにふくらんだ布団全体が腰板のうえに浮きあがることがあり、それがはげしく揺れ動き、男の荒い息遣いと、絶えいりそうなお滝の声が、手にとるように聞こえるのである。  やがて、その震動がメチャメチャになり、座敷のなかの箪笥《たんす》の環が鳴りはためき、男の口からもれはじめたけだもののようなうめき声と、お滝のあげる叫び声が、ものに狂ったように交錯しはじめたかと思うと、やがて男のうめき声が怒号と化し、お滝の叫びが悲鳴となって、ひと声高く尾をひいたかと思うと、あとはシーンと静まりかえって、男の息をととのえる気配がごくかすかに……。  気がつくと、歌仙はこの雪空にもかかわらず、全身ぐっしょり汗になっていた。彼女はべつにいまかいま見た情景に刺激されたわけではない。歌仙がいま手に汗握っているのは、この男が泊まっていくかどうかということである。それによって、歌仙の計算は狂ってくる。  しばらくシーンとしずまりかえっていた座敷のなかでは、やがてガサゴソともののうごめく気配がし、男と女の話し声がきこえはじめたが、どちらも低い声なので、話の内容までは聞きとれなかった。  しかし、男がときどきのどのおくで低い笑い声をあげるのにたいして、お滝がいやにツンケンしているらしいところをみると、お滝はべつに、あいてにほれているわけではないらしい。いったい、どういう男だろう。  雪はますますはげしく降りしきり、立っているとつまさきから凍るような寒さがはいあがる。それに、寝酒を買いにいったばあやが、いつかえってくるかと気にかかる。  それをじっと辛抱しているのも、母なればこそだったが、そのうち、歌仙はギョッとしたように胸をおさえた。 「あら!」  と、お滝の声がきこえ、 「それじゃ三度よ」  その声をきいたとたん、歌仙は絶望の淵《ふち》にたたきこまれそうになった。男がまた要求しているらしい。だが、つぎの瞬間聞こえてきた男の声が、歌仙をもう少し踏みとどまってみようと決心させた。 「なんどだっていいじゃないか。そのかわり、こんどすんだら、おとなしく、今夜はこのまま引き揚げるよ」  影法師ねことねずみ   ——お墨付きを捨てたりするもんか  お滝はこの男に、なにかよっぽど弱いしりをおさえられているらしい。  しばらくは男の誘いをこばんでいたようだが、けっきょくはあいてのいいなりにならざるをえなかったのか、しばらくシーンとしていたが、やがてお滝の息遣いが、しだいに荒くなってきたかと思うと、まもなくこたつのうえの掛け布団が、もぞもぞうごめきはじめたかと思うと、やがてジワリジワリと予備運動がはじまった。  お滝はもう観念のホゾをかためているのか、男のなすがままにまかせているらしいが、それでは男が満足するはずがない。  しばらくはねこがねずみをもてあそぶように、ゆるやかな攻撃をくわえていたが、しだいにそれが速度をまし、やがて風雲急をつげてきたかと思うと、じぶんやよしとみてとったのか、男はやにわに女をひざのうえに抱いたまま、寝床のうえに起きなおったので、障子のうえに、抱きあった男と女の上半身が、影法師となってくっきりと現れた。  雨戸の外では歌仙があなやと息をのむ。男も女も裸であった。 「いやよ、いやよ、こんなこと……」  お滝は鼻を鳴らしながら、それでいて男からはなれようとしない。  ぎゃくに両手を男の首にまきつけて、項《うなじ》を大きくうしろへそらせて、絶えいるばかりの声をあげながら、はげしく体を上下にそよがせている。昔からそうだったが、いまでもむっちりとした肉置《ししお》きの豊かさは、いかにも男の好きごころをそそりそうである。  男はお滝の胸のなかに顔をうずめている。影法師となって映し出されたその裸は、大兵肥満の大男で、隆々たる筋骨のたくましさをみせている。男は両手で女の腰を抱きしめ、下からはげしく女の体をゆすりあげている。  しばらくこういうポーズではなばなしい合戦がくりひろげられていたが、やがて男は腰を抱いていた両腕を女の首にまわすと、やにわに体をうしろへ倒して、こたつにもたれかかるようなかっこうで、ななめ仰向きの体位になった。  はずみをくらって、お滝も男のうえに倒れると、 「まあ、憎らしい……こんなこと……」  息をあえがせ、あえがせ、口ではそんなことをいいながら、お滝は男のうえからのしかかり、こんどは両手をあいての腰にまわした。  そういう体位になったので、お滝の豊満な臀部の肉付きまで影法師となって障子のうえに浮きつ沈みつしはじめたが、その腰は男のふとい両脚でがっちりと羽がいじめにされている。  お滝は下からたくましい男のからだにがんじ絡めにされてしまって、いまや恥も外聞もあらばこそ、阿修羅《あしゅら》のようにたけり狂っている。どうやら、男の思うツボにはまったようである。  歌仙はそこまで見とどけて、節穴から目をはなした。  昔、お滝には不死身というあだ名がついていた。ひと晩に五人の客に出て、五人とも満足させたというのである。  どうせ、あいては女役者を買うくらいだから、ひととおりやふたとおりの道楽者ではない。めいめいおのれの好みにしたがって、あいての女を乱れに乱れさせなければ、おのれも満足できない連中である。  お滝はひと晩にそういう客を五人もとって、なおかつ平然として、翌日の舞台を勤めたという評判がある。  歌仙はひさしぶりに昔の仲間のうわさにたがわぬ不死身の実態をまのあたりにかいま見て、雪の夜の寒さもしばし忘れる気持ちだったが、座敷のなかでは三度目の闘争もようやく終末にちかづいてきたらしい。  れいによってメチャメチャな震動と、男の最後をしめす怒号と、女の絶えいるようなあえぎと悲鳴がからみあってきこえていたが、やがてそれがプッツリ途絶えると、あとは墓場のような静けさがしばらくつづいた。  やがて、ドタリと体を倒すような物音に、歌仙がもういちど節穴に目をおしあてると、お滝のすがたはみえなくて、裸の男がこたつのうえに股《また》をひらいて腰をおろしていた。  ねこはとうとうねずみをたおし、肉をくらい、骨までしゃぶってしまったのだろう。骨までしゃぶりつくされたお滝は、いま、気息|奄々《えんえん》たる体を寝床のうえによこたえているのか、それともはげしい闘いの余波に、いまなお身をおぼれさせているのではないか。  男はいま勝どきをあげたばかりの不敵な小冠者のしまつをすると、 「おい、お滝、それをこっちへ取ってくれ」 「はい」  お滝が半身を起こして渡したのはふんどしらしい。  男が立ってふんどしをしめはじめたので、歌仙はあわてて目を反らそうとしたが、つぎの瞬間、お滝のいったことばが、歌仙の目をそのままそこへくぎづけにしてしまった。 「あなた、奥方様といつもこうなんですの」 「うっふっふ」  と、ふくみ笑いをするように、 「あの権高な奥方が、なんであんなことをさせるもんか。奥方のまえへ出れゃ、おれはねこにつかまったねずみもどうよう、いつも好きなように料理させられてしまうのさ」 「あれ、あんなことを……」  お滝の影法師も、起きて長襦袢《ながじゅばん》を着はじめた。 「いや、ほんとのことだ。だから、そのお口直しに、これからちょくちょくここへくる。おまえもその体だ。役者でも買っているんだろうが、生っちろい役者なんかより、おれのほうがなんぼましだかしれやアしねえぜ。あっはっは」 「それはよろしゅうございますが、荒木様、わたしがここにいることは、奥方様にはぜったい秘密で……」 「それゃ大丈夫だが、お滝、おまえはなぜあの奥方がそんなに怖いのだ。本物のお墨付きは、たしかに破って捨てたといったな」 「はい、それはなんども申し上げたとおりでございますが、わたしゃいちどあの奥方様をだましておりますから」 「そうさな、あの奥方ときたひにゃ、滅法執念ぶかいおかただからな。しかし、なにもくよくよするこたあねえ。この荒木与右衛門様がついているからな。あっはっは」  男は立ったままお滝の体を抱きよせた。影法師の顔と顔がピッタリくっついたのは、口を吸いあっているのだろう。 「それじゃ、食べ立ちでなんだが、今夜はこれでかえるが、また四、五日のうちにくる」  と、男はそのまま玄関からかえっていった……。 「なるほど、師匠」  と、佐七はなにやら目を光らせながら、 「その荒木与右衛門というのは、どういうおかただ」 「御用人様でございます。かねてから奥方様ともいかがわしいうわさのあるひとですが、ゆうべの話でやっぱり……」 「その御用人がお滝のいどころを突きとめて、強面《こわもて》にお滝をくどいたというわけか」 「そうらしゅうございます」 「それで、お墨付きは……?」 「お滝さんは破りすてたといってましたが、それがまっかなうそであることは、すぐそのあとでしれました」 「というのは……?」 「御用人さんを玄関から送り出すと、お滝さんが座敷へかえってきて、舌打ちしながら、こんなことをいうのが聞こえたんです。だれがだいじなお墨付きを破りすてたりするもんかね。もっともっと値が出るまで、だいじにあたためておくのさと……」 「悪いやつだな、お滝というのは……」 「それゃアそうだろうよ、辰」 「とおっしゃると……?」 「お滝がしんじつお墨付きを破ってしまったのなら、奥方にも用人にも弱みはないはず。用人は用人でそれをしっているからこそ、強面でお滝の体をおもちゃにしながら、気長に口をわらせようという寸法さ」 「あっ、なあるほど。ほんなら、きつねとたぬきのだましあいだっかいな。どっちもどっち、悪いやっちゃなあ」 「すると、親分、師匠のだいじなお墨付きは、まだあの家のどこかにあるわけですね」  ゆうべのどろぼうがもっていかなければ……といいかけて、佐七は口をつぐんだ。歌仙にとってそれはあまりにも残酷な宣告だと思ったからである。 「それより、師匠、おまえの話をきこう。おまえはどうして、あの家のなかへはいったんだえ」 「それはかようでございます。お滝さんはそれから御不浄へはいり、御不浄から出ると、手水鉢で手を洗おうとして、雨戸をいちまい開いたのでございます。そこをすかさず、このわたしが、なかへとびこんだのでございます」  なるほど、それでつじつまがあう。 「ふむ、ふむ、それからどうした。そのあとが大切だ。そこんところをくわしくききたい」 「はい」  宗十郎頭巾をかぶった歌仙のすがたを見ると、お滝はびっくりしてうしろへとびのいた。  歌仙は頭巾をとると、お墨付きをかえしてくれと、縁側に頭をこすりつけて嘆願した。  お滝もあいてが歌仙とわかると、きゅうにつよくなり、岩藤《いわふじ》が尾上《おのえ》をいじめるように、ねつい調子で皮肉をならべ、あげくのはてには若衆鬘をむしりとって、雪のなかに投げだした。  歌仙はお墨付きを取りもどしたい一心である。  どんなにされても胸をさすっていたが、あいてがお墨付きを破りすてたといいはるので、いまきいたひとりごとをもちだすと、お滝の顔色がさっとかわった。 「それをきかれては……」  と、お滝は座敷へかけこむと、かみそりをもちだしてきて、いきなり歌仙に切りつけた。  ふいをつかれて、歌仙も左の腕をざっくりえぐられて、血潮がどくどく吹きだした。  しかし、歌仙も一生懸命だ。もみあううちに、かみそりが歌仙の手にのこった。さすがに歌仙の顔色もかわっていたにちがいない。  お滝は恐れをなして、雨戸のすきから、 「人殺しい、助けてえ!」  と、二、三度叫んで、また座敷へかけこんだかとおもうと、寝床のうえで、バッタリ悶絶《もんぜつ》したのである。  おどろいたのは歌仙である。そばへよって声をかけたが、返事はない。  胸へ手をやったが心臓の鼓動はとまっている。鼻へ手をやったが、呼吸もとまっている。  歌仙はきゅうに恐ろしさがこみあげてきた。  いまの叫びに、ひとがかけつけてきては面倒と、傷口をしっかと右手でおさえて、雨戸のすきまからとび出したが、気がつくと、まだかみそりを握っている。  それをうしろへ投げすてて、外へとび出したというわけである……。  なるほど、歌仙の話をきくと、すべてつじつまがあっている。  ただ、わからないのは、だれがなにゆえ、お滝の死体をぬすんでいったかということだ。  歌仙にそれをたずねると、歌仙も目をまるくして、 「お滝さんの死体がぬすまれたんですって。とんでもない、荒木与右衛門がなんぼ色好みでも、お滝さんの死体に未練があろうなどとは……」  歌仙もあきれはてた顔色である。  命のお墨付き   ——この一件での殊勲甲は孫のお丸  歌仙の話で、だいたいの筋道はわかったけれど、わからないのは、お滝の死体盗みである。  思案にあまった佐七の足は、いつかまた、池の端のお滝の家へむいていた。  いったい、だれがなんのために、お滝の死体を盗んだのか。 「親分、歌仙はああいいますけど、これゃアやっぱり、荒木与右衛門のしわざにちがいありませんぜ」 「そや、そや、与右衛門のやつ、もういちど引きかえしてきて、お滝の死体を盗んでいきよったにちがいおまへん」 「しかし、与右衛門がなんのために……?」 「それゃア、親分、お滝の身もとがしれて、お屋敷へ詮議がかかっちゃいけねえと思ったからでしょう」 「そうかなあ」  なま返事をしながらも、佐七はもうひとつ納得がいかなかった。  うらの枝折り戸からなかへはいっていくと、日当たりのいい縁側に腰をおろして、お丸がねこの玉をひざにだいて、なにやら赤い布で縫っている。 「お丸、なにをしてるんだ」  佐七が声をかけると、 「あら、親分、いらっしゃい。いま玉を洗ってやったの。血だらけになってきたないでしょ。それから、首っ玉も血でよごれてたから、あたらしく縫うてやるの」 「あっはっは、おまえなかなか世話女房だな」  辰がからかうと、 「そうよ、あたし、いいおかみさんになるのよ」  と、ケロリといったが、きゅうに思いだしたように、 「ああ、そうそう、親分、ゆうべのどろぼう、おかしなことがあったのよ」 「おかしなことって?」 「なんだか、しきりに玉を呼んでたの。あたし、その声からして女かと思っていたのに、とびついてみると、刀を二本さしてたでしょ。それでびっくりしたんだけど、ひょっとすると、どろぼう、ふたりだったのかもしれないわね」 「なに? 女の声で玉をよんでたあ?」  佐七はキラリと目を光らせると、 「それで、そのとき玉はどこにいたんだ?」 「あたしのお寝間のなかに寝てたのよ。かわいそうだから、だいて寝てやったの」 「それで、お丸、女は玉をさがしていたのか」 「ええ、そうらしいわ。でも、わたしがとびついたので、あきらめて出ていったらしいの」 「お丸」  佐七はきゅうに語気をつよめて、 「玉の古い首っ玉はどこにあるんだ。血のついた首っ玉は……?」 「お勝手のごみだめへ捨てたわ、きたないんですもの」 「辰、豆六」 「お、親分!」 「なんでもいいから、はやくいってさがしてこい。お丸」 「親分、どうかして?」 「おまえいい子だからな、その首っ玉をぬうて、玉の首にまきつけといてやれ。そして、だれにもそれをいうな。おばあさんにもな。おれまたこんや来らあ」 「あら、親分、こんやもまたなにかあって?」 「お丸、怖いか」 「あたしは怖くないけど、おばあさんがまた、腰をぬかすとこまるわ」 「あっはっは、おまえはたいした度胸だな。いい子だから、おばあさんにはなにもいうな」  そこへ辰と豆六が、赤い首っ玉をぶらさげて、目を光らせながらかえってきた。 「親分、たしかにこのなかに……」 「ああ、そうか。よし。お丸、礼をいうぜ。いや、おまえに礼をいうひとはほかにもある」 「親分、それ、なんのこと?」 「いや、なんでもいい。それじゃ、こんやくるからな。おれのくることをだれにもいうな。おばあさんにもな。おばあさん、腰を抜かすとわるいからな」  と、かたく口止めをしておいて、いったんお玉が池へひきあげた三人は、その晩、ひとめにつかぬよう、ひとりずつわかれて、池の端へしのんでいった。 「あら、親分さん、こんやまたなにかございますの」  こたつのなかで寝酒をのんでいたお倉は、はやくもおびえた顔色である。 「なあに、お倉さん、気遣うことはねえ。なにごとがおこるとしても、おいらがここにいるからにゃ大丈夫だ、大船にのった気でいろ。お丸、お玉は……?」 「親分、玉はここでねています」  玉はこたつのなかでぬくぬくと、香箱をつくっている。 「よし、それじゃ、どこもかしこもあかりを消して、ねたふりをして待っていろ。なにごとがおこっても、おれがいいというまでは声を立てるな」  暗がりのなかで待つことおよそ小半刻《こはんとき》、四つ(十時)ごろのことである。  凍《い》てついたのこりの雪をふみしめて、裏木戸の外へしのびよる足音がきこえたかとおもうと、やがて、どさりとかるい地ひびき。  くせ者が板塀《いたべい》をのりこえたのだ。  それからだいぶんながいあいだなんの物音もきこえなかったが、とつぜん座敷のほうにあたって、 「玉……玉……玉はどこ? 玉よ、おいでよ」  いつのまに、家のなかへしのびこんだのか、ねこを呼ぶのは女の声だ。  佐七が小声でお丸になにか耳打ちすると、お丸は暗やみのなかでうなずいて、玉をこたつからひきずりだして、そっと部屋の外へ押しだした。 「玉……玉……玉はどこ?」  女の声はしだいにじりじりしてきたが、やがて、うれしそうに、 「ああ、玉、そこにいたの。さあ、わたしといっしょにいきましょう」  と、ねこを抱いていこうとするうしろから、 「お滝、そのねこでいいのか。もうそのねこにゃ一文の値打ちもねえぜ」  声かけられて、あっとふりかえったお滝は、なんと宗十郎頭巾に長合羽、刀を二本さした侍姿ではないか。  お滝は佐七のすがたをみると、はっとしたように手にした龕灯《がんどう》ちょうちんを吹き消したが、そのとたん、辰と豆六が左右から、 「お滝、御用だ!」  と、おどりかかっていた。  これで、この捕り物もおしまいである。  良庵先生の見立てにあやまりがあったわけではない。  お滝はいったん死んだのだ。  いや、強面の与右衛門にさんざんおもちゃにされたあげく、必死の面持ちの歌仙の出現に、恐怖のあまり、仮死の状態におちいったのである。  ところが、明け方ごろになって、ふっとまた命がよみがえってきた。  お滝はまくらもとの逆さ屏風《びょうぶ》や線香が立ててあるのをみて、じぶんがいったん死んだことに気がついた。  そこで、当分、死んだものになっていようと、狂言衣装を持ちだして、侍姿に身をやつし、この家を立ち去ったのである。  それはむろん、好色な荒木与右衛門の毒手と、歌仙の必死の追及からのがれるためでもあった。  お滝はむろん出ていくまえに玉のゆくえをさがしたが、お丸が抱いてねていたために見つからなかったことはまえにもいった。  玉の赤い首っ玉のなかにこそ、千代丸にとって命よりだいじなお墨付きがはいっていたのだ。 お滝の口から、奥方と荒木与右衛門の不義が暴露したので、奥方はご離縁、与右衛門は殿のご親戚のかたのために手討ちにされた。  殿というのは三千石の寄り合い旗本、駒井《こまい》佐渡守様だということである。  お墨付きももどってきたので、千代丸はめでたく駒井家へ迎えられ、久しぶりのご親子のご対面、跡目の儀もさだまったところで、佐渡守様は息をひきとられたが、それは年も明けてからのことだった。  こんどの一件の殊勲甲は、なんといってもお丸だが、彼女は祖母のお倉とともに駒井家へひきとられ、幸福な生涯をおくったという。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻六) 横溝正史作 二〇〇五年六月十日